耳嚢 巻之八 連歌其心自然に顯るゝ事
連歌其心自然に顯るゝ事
古物語にあるや、また人の作り事や、夫(それ)はしらざれど、信長秀吉、乍恐(おおそれながら)神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公(ほととぎす)を聞(きか)ずとの物語り出けるに、信長、
鳴ずんば殺して仕まへ時鳥
とありしに秀吉、
鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥
とありしに、
なかぬなら鳴時聞ふ時鳥
とあそばされしは神君の由。自然と其御德化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、其自然をあらはしたるが、紹巴(ぜうは)も其席にありて、
鳴ぬなら鳴ぬのもよし郭公
と吟じけるとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。本話のソースをネット上に松浦静山の「甲子夜話」とするものを見かけたが、この「耳嚢」の方が遙かに早い。岩波版長谷川氏注には「百草露」(著者は含弘堂偶斎とも小野高潔ともされ、成立は天保一一(一八四〇)年頃か)の「九」にも載る、とある(これは所持しないので未見)。「甲子夜話」の「第五十三 八」から引いておく(底本は東洋文庫版を用いたが、恣意的に正字化した)。
夜話のとき或人の云けるは、人の假托に出る者ならんが、其人の情實に能く協へりとなん。
郭公を贈り參せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵠 豐太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現樣
このあとに二首を添ふ。これ悼る所あるが上へ、固より假托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
因みに、
織田が搗(つ)き羽柴が捏(こ)ねし天下餠座して喰らふは德の川
という落首もあるが、これは幕末の天保期(一八三〇年~一八四四年)或いは嘉永期(一八四八年から一八五四年)に作られたとされるものである。
・「紹巴」戦国期の連歌師里村紹巴(さとむらじょうは 大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)。以下、ウィキの「里村紹巴」によると、里村姓は後世の呼称で、本姓は松井氏ともいわれる。号は臨江斎・宝珠庵。奈良の生まれ。連歌を周桂(しゅうけい)に学び、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)につき、後に里村家を継いだ。その後公家の三条西公条条(さんじょうにし きんえだ)をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など、多数の武将とも交流を持ち、天正一〇(一五八二)年に明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名で、本能寺の変の後には豊臣秀吉に疑われるも、難を逃れたとある。四十歳の時、連歌界の第一人者であった宗養(そうよう:「東国紀行」の作者として知られる連歌師宗牧の子。)の死でスターダムにのし上がるも、文禄四(一五九五)年の豊臣秀次が秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹した一件に連座し、近江国園城寺(三井寺)前に蟄居させられた。『連歌の円滑な進行を重んじ連歌論書『連歌至宝抄』を著したほか、式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作も多く、『源氏物語』の注釈書『紹巴抄』、『狭衣物語』の注釈書『下紐』などが現存している。近衛稙家に古今伝授をうけた。門弟には松永貞徳などがいる』。「逸話」の項には、『辻斬りに遭遇したが、逆に刀を奪い取って追い払ったことがあり、これを信長に賞賛された、と、弟子の貞徳が伝えている』とある。
■やぶちゃん現代語訳
連歌にはその心の自然に顕わるる事
古き物語にでも記されてあるものか、はたまた、誰かの作り話てもあるものか、それは定かではないが――信長公、秀吉公、そうして――お畏れながら――神君家康公の御三方が御参会なされたる砌り、卯月四月の頃おい、いまだ郭公(ほととぎす)の音を聴かず、との御物語りが場に出でたりけるところ、信長公は、
鳴ずんば殺して仕まへ時鳥
と詠まれたところが、秀吉公にては、
鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥
とものされた。すると、
なかぬなら鳴時聞ふ時鳥
と遊ばされたは神君家康公であられた由。
自然と、神君家康公の広大無辺なる御徳化の温順であらせられること、また、信長公の残忍たりしこと、秀吉公の巧妙なる智をめぐらしつつも度量の広きところなど、その自然を句に顕わして御座ったが、たまたま、かの連歌師紹巴(じょうは)も、その席にあって、
鳴ぬなら鳴ぬのもよし郭公
と吟じたとか。

