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2014/09/25

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 78 福井 芭蕉、光源氏となる 

本日二〇一四年九月二十五日(当年の陰暦では九月二日)

   元禄二年八月 十二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十五日

諸資料からこの八月十二日辺りに芭蕉は福井の旧知の俳人等栽宅に到着したものと推定出来る(敦賀の月見の予定から逆算)。まず、「奥の細道」の福井の段の通行の校訂本文を示す(但し、思いのあって、平仮名書きを増やし、直接話法及び心内語部分を改行してある)。

 

 福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、たそかれの道たどたどし。ここに等栽といふ古き隱士あり。いづれの年にか、江戸に來りて、予を訪(たづ)ぬ。はるか十とせあまりなり。いかに老いさらぼひてあるにや、はた死にけるにやと人に尋ねはべれば、いまだ存命して、

「そこそこ。」

と教ゆ。市中(いちなか)ひそかに引き入りて、あやしの小家(こいへ)に、夕顏・へちまの延(は)えかかりて、鷄頭・帚木(ははきぎ)に戸ぼそを隱す。さては、このうちにこそ、と門をたたけば、侘(わび)しげなる女の出でて、

「いづくよりわたり給ふ道心の御坊(ごばう)にや。あるじは此のあたり何某(なにがし)と云ものの方に行ぬ。もし用あらば訪ねたまへ。」

といふ。かれが妻なるべしとしらる。

『昔物語りにこそ、かゝる風情ははべれ。』

と、やがて尋ねあひて、その家に二夜(ふたよ)泊りて、名月は敦賀(つるが)の湊(みなと)に、と旅立つ。等栽もともに送らんと、裾(すそ)をかしうからげて、 路の枝折(しをり)と浮かれ立つ。

 

[やぶちゃん注:以下、自筆本を示す。

   *

福井は三里計なれは夕飯した

ためて出るにたそかれの道たと

たとし爰に等栽と云古き

隱士有いつれの年にや江戸に

     尋

來りて予を遙十とせ餘り也

いかに老さらほひて有にや將死け

るにやと人に尋侍れはいまた

存命してそこそことをしゆ

市中ひそかに引入てあやしの

小家に夕顏へちまのはかゝり雞

頭はゝ木ゝに戸ほそをかくす扨

は此うちにこそと門を扣は侘し

けなる女の出ていつくよりわたり

玉ふ道心の御坊にやあるしは

このあたり何某と云ものゝ方に行

ぬもし用あらは尋玉へと云かれか

妻なるへしとしらるむかし物

かたりにこそかゝる風情は侍れと

やかて尋あひて其家に二夜

とまりて名月はつるかの湊に

と旅立等栽も共に送らんと裾

            と

おかしうからけて道の枝折とうかれ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇夕顏へちまのはかゝり → ●夕顏へちまの延(は)えかかりて

[やぶちゃん注:元は「夕顔・糸瓜の葉掛かり」(延び掛かって)であった可能性が窺えるか。]

■やぶちゃんの呟き

「等栽」「とうさい」と読む。洞哉とも書く。神戸氏。生没年未詳。福井俳壇の古老で、芭蕉と同じく北村季吟の流れを汲む。安東次男氏によれば、芭蕉が初めて江戸に下ったのは寛文一二(一六七二)年二十九歳頃のことであるが、元禄二年から「十とせ餘り」とすれば、延宝七(一六七九)年で芭蕉三十六頃より前ということになり、その頃は『まだ深川に庵を結んでいない』頃と記しておられる。

「道の枝折」案内役。古来、旅する者は後から来る人が道を違えぬよう、枝を折って道標べとしたことに由来する。この時、彼は芭蕉を敦賀まで見送っている。芭蕉の独り旅が実際には如何に短いものであったかが知れる。

 さても本段は高校生でも即座に「源氏物語」の「夕顔」の段のインスパイアであるとは気づく。しかし、それだけの曲のない流用によるパロディ化だけであるなら、これは当の高校生でさえも鼻白むに違いない。その辺りの深奥を美事に剔抉したのは、やはりかの安東氏の「古典を読む おくのほそ道」(岩波同時代ライブラリー)であった。補助部分も含めるとかなり長いが、私はこれ以上に腑に落ちる解釈はないと思うによって、そのままあえて引かせて戴く。

   《引用開始》

○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ――意味は、いかにも物語にありそうな風情ということで、特定の物語を指すわけではないが、この云いまわしは『源氏物語』の「帚木」と「夕顔」に出てくる。

 「…いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音にきほへるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。」(帚木)「…ただこの枕がみに、夢に見えつる容(かたち)したる女、面影に見えてふと消え失せぬ。昔物語などにこそかかることは聞けと、いと珍らかにむくつけけれど…」(夕顔)前の方は、久しく通わぬ女からの歌(「山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよなでしこの露」)にほだされた頭中将が、常夏の女を又尋ねた話を源氏に語る場面(雨夜の品さだめ)で、女はのちの夕顔、「なでしこ」は娘の玉鬘である。後の方は、八月十五夜の明方ちかく源氏に連出された夕顔が、その晩、六条御息所の生霊に取付かれて頓死するくだりである。

 福井訪隠の興は、それとさとらせる詞の借用ぶりにもよく現れているようだ。「帚木」をさすらいの初心として旅に出た男が(20ページ参照)、名月にちかく、ハハキギも既に老いた宿で(帚木の季は晩夏である)、ユウガオの実と出合えば、常(とこ)懐しさに駆られぬ方がおかしい。夕顔の恋は、芭蕉の俳譜に特別の因縁があったから、猶のことそう思う。

 「遥十とせ余り」の旧知を尋ねるという思付は、頭中将の夜ばなしにかさねて、玉鬘をいとおしむ源氏の懐旧が、面影になっているだろう。「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根(夕顔)を人や尋ねん」(常夏)美しく成長した娘を実父内大臣(もとの頭中将)に、ふと、逢わせてみたくなって源氏が詠む歌だが、これは夕顔の死から十九年後だ。

 訪隠の心はどうやらこの歌らしい。そういう男は、案の定、等栽を敦賀の月見に連出している。通説は、「たそかれ」「あやしの小家」「夕貌」などの片言をとらえて、福井入の描写を「夕顔」の巻の書出に較べたがっているが、俳文の面白さはそんな幼稚な裁入にあるわけではない。「帚木」に見定めた漂泊の興がまずなければ、そして「常夏」という後日譚がなければ、福井のくだりは児戯に類する作文としか見えぬはずだ。

   《引用終了》

 この途中の『「帚木」をさすらいの初心として旅に出た男が(20ページ参照)』と『夕顔の恋は、芭蕉の俳譜に特別の因縁があった』についても当然、等閑には出来ぬ。まず、前者であるが、これは「奥の細道」の旅立ちの段のかの「月は有明にて……」の名文句の注を指す。

   《引用開始》

○月は在明にて光をさまれる物から――「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。」(源氏物語、帚木)有明の描写など、古歌・古文には掃いて捨てるほどある。その中でこの『源氏』の描写がとくにすぐれているわけではな  い。光が穏やかになったから反(かえ)って月の形がはっきり見える、というのはいかにも夏の月らしい観察で、うまいといえばそこがうまいが、それとて特に云うべきほどのことではあるまい。芭蕉は、一字の変更も加えずに裁入(たちい)れている。芸のないことをしたものだと思いたくなるが、恋の遍歴も漂泊だと考えれば納得がゆく。「帚木の巻」は、光源氏のさすらいの第一歩である。援用箇所は空蝉(うつせみ)との後朝(ごちょう)の場面で、物語は先の文に続けて、「何心なき空の気色も、ただ見る人から、艶にも凄くも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言づて入れむよすがだになきを、かへりみがちにて出で給ひぬ」とある。

 芭蕉はこれを、例の須磨流謫(るたく)につないで読んでいるらしい。「道すがら、おもかげにつとそひて、胸も塞(ふた)がりながら、御舟に乗り給ひぬ。日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申(さる)の時ばかりにかの浦に着き給ひぬ。(中略)うち返り見給へるに、来し方の山は霞み、はるかにて、まことに三千里の外(ほか)の心ちするに、櫂のしづくもたへがたし。」(須磨)時分は弥生も末のことで、これも『ほそ道』の旅立と符合しているが、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく」は瞭かに踏替(ふみかえ)だと気がつく。戻って、「上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」も、「いつか又春のみやこの花を見む時うしなへる山がつにして」(須磨、春宮(とうぐう)への源氏の消息歌)を下に敷いているらしい。前年、須磨明石に吟興を尽したばかりであってみれば、それも当然と思われるが、紀行は旅じまいの種(いろ)の浜のくだりでも、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」の一句を書留めている。『ほそ道』の俳詣師は、自分を光源氏になぞらえて旅立妄った(雛流しにされるなら光源氏でゆこうという思付はうまい)、そう考えてよさそうだ。

 さすらいの手はじめは「帚木の巻」から、という趣向は俳諧がある。この道行のちょっとした興、浮かれ心に気がつかぬと、「月は在明にて光をさまれるものから」と、わざわざ無芸に、言葉を丸のまま裁入れた狙も見落すことになる。

   《引用終了》

 また、後者の『因縁』については補注があるので、これも引用させて戴く(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

 深川墓庵には素堂が命名した名物瓢(「四山」ノ瓢)があって、訪庵者たちをよろこばせたという話は有名だが、ヒサゴはユウガオの実である。夕顔の恋は挨拶の恰好のたねになった。貞享五年、更科の月見のあと、そのまま越人を江戸に連れ帰った芭蕉が、後の名月(九月十三夜)に寄せて興行した両吟の歌仙(発句は「雁がねもしづかに聞(きけ)ばからびずや 越人」、脇は「酒しゐ[やぶちゃん注:右に安東氏の『(ひ)』という傍注がある。]ならふこの此の月 芭蕉」)はまさにそれだったようだ。酒(瓢)好の越人を、今度は娘(玉鬘)に見立て替えて、前の名月(夕顔の恋)を偲ぼう、というしゃれた思付である(拙著『連句入門』の「後の月の恋」「夕顔の恋余聞」を参照されたい)。加えてこの歌仙は、出来映と云い趣向と云い、其後の蕉風俳諧の一手本になったと見えて、元禄六年初冬、越後屋の手代たちが芭魚庵に押掛けて請うた例の「夷講」の巻(『炭俵』所収)には、初折(しょおり)の月の扱をめぐつて、明らかに右の両吟を意識したと思われる転合(てんごう)な恋の仕掛が見られる(「解釈ということ」、289ベージ参照)。

 戻って、『猿蓑』の「夏の月」の巻にも「夕顔」の巻からの裁入がある(『連句入門』「連句の興 の起るとき、其三」)。

   《引用終了》

ここに示された参照注記の「後の月の恋」「夕顔の恋余聞」「解釈ということ」の孰れもがこれまた優れてディグされたものなので是非、それぞれお読みになられることを強くお薦めする(と記しておけば掟破りの長文引用も許されよう)。

 いや、凄い! 退屈極まりない典拠挙げの羅列でよしとするような凡百の国文学者の評釈とも言えぬ評釈と比べ、何というキれにキれた評言、否、俳言であろう!

……上野谷中の桜の梢……かさねという八重撫子……市振の萩……山中の菊……花尽しの蔭には恋があった。……

……何よりここに、夕顔(等栽)を訪う光(芭蕉)を心秘かに慕(しと)うている悶々たる六条御息所(曾良)もいるではないか?!……

……禁断の朧月夜(桃妖)との契りによって引き起こされた、失脚の寂しき羈旅は……

 

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

 

……まさに……須磨への流謫であったのである…………]

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