『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅱ)
東屋の側(わき)より折れて北に行くこと數町。衝路(しやうろ)に當りて。朱塗草葺(しゆぬりくさふき)の門あり。是そ有名なる稱名寺なり。門に久良岐。橘樹兩郡八十八ケ所靈場第五十二番稱名寺と貼題す。門内左に事務所。右に新築の金澤文庫あり。正面は二王門にして。金澤山の扁額を掲く。門を入れは蓮池ありて石矼を架せり。彼の金澤(かなさは)四石の中に算する美女石。姥石在る處を知らず。左に金澤文庫古地之牌あるを見る。寛政六年甲寅春二月江戸倉澤安貞の撰文なり。本堂は二重組上天井(にぢうくみあげてんぢやう)。素木造(しらきつく)り。開き戸にて。内に三鱗(さんりん)の紋打たる幕を張れり。金澤八景の一なる「稱名寺鐘」の鐘樓は。堂の東に在り。鐘銘は左の如し。
[やぶちゃん注:「東屋」「あづまや」で旅館の名。後掲される。瀬戸橋を渡って野島方向に百七十メートルほど行った洲崎町三叉路附近にあった。明治二〇(一八八七)年に伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎四名がこの東屋で明治憲法草案を作成したことで知られる旅館。
「數町」一町は一〇九・〇九メートル。洲崎三叉路から称名寺山門前までは凡そ一・二キロメートルある。
「新築の金澤文庫」ウィキの「金沢文庫」に、明治三〇(一八九七)年に伊藤博文らによって称名寺大宝院跡に金沢文庫が再建されたとあるから、これは本誌発行(明治三十一年八月二十日)の前年である。その後この建物は関東大震災で失われ、その後、昭和五(一九三〇)年になって『神奈川県の運営する文化施設として復興』、平成二(一九九〇)年に『新築され、現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する歴史博物館と、国宝や重要文化財を含む金沢文庫の蔵書を分析・研究する施設が設置運営している』とある。因みに同記載には、『歴史・慣例的に「金沢文庫」は「かねさわぶんこ」と読むのが本来であり、金沢を「かねさわ」と読んだ』。『江戸時代に加賀藩の金沢が著名になり「かなざわ」という読みが広まり、公共機関の読みも金沢区や京急電鉄「金沢文庫駅」は「かなざわ(ぶんこ)」となり、神奈川県立金沢文庫も同様に「かなざわぶんこ」となっている。そのため、今日では「金沢文庫」についても「かなざわぶんこ」と読まれることが多くなった』という呼称の経緯が記されてある。
「石矼」「いしばし」と読む。石橋。
「美女石」「姥石」本誌が書かれた頃は、両石ともに同定されていなかったものらしい。これらは北条貞顕が称名寺園地を整備した際に阿字ヶ池に配置したと思われるもので、現在は美女石のみが同池の中に残っている(但し、これを姥石とする説もある)。個人サイト「横浜金沢みてあるき」の「美女石と姥石(称名寺境内)」に、昭和一四(一九三九)年の「金沢文庫案内」に載る池中に並ぶ美女石と姥石の写真が載るので必見。それを見ると、現在の美女石は正しく美女石と思われるものの(右の石が有意に小さく屈んだようで姥と比しておかしくない)、右半分が大きく損壊しているように見受けられる。また、同リンク先には、昭和六二(一九八七)年に『年阿字ヶ池の改修が行われた時、池底の浚渫が行われましたが、それらしい石は発見できず、どこに消えたか謎のままで』あるとあり、『この石はもともと庭園に奥深く静かな雰囲気を加えるために水辺に配置された庭石で元享2年(1323)に作られた称名寺結界図にも描かれていますが、美女石・姥石の名前は江戸初期につけられたようで』あるともある。また、『その昔、北条の姫と乳母が称名寺の池のまわりを散歩していたとき、姫が足を踏み外して池に落ち』、『乳母は姫を助けようと池に入』たものの、『二人とも溺れ死に、やがて石になったという伝説があ』ると記し、『また溺れた二人を供養するために、その場所に二つの石を立てたという言い伝えもあ』って、
稱名のみのりの池の美女石も姥もろともに蓮のうてなに
という歌が言い伝えられていると記す。「新編鎌倉志卷之八」には、
美女石(びじよせき)幷に姥石(うばいし) 堂の前蓮池の中、西の岸の方にあり。共に金澤四石の内なり。
とあって「せき」と「いし」で差別化しているのが分かる。
「寛政六年」西暦一七九四年。
「倉澤安貞」詳細不詳。
「三鱗の紋」金沢氏本家北条氏の家紋。
打たる幕を張れり。金澤八景の一なる「稱名寺鐘」の鐘樓は。堂の東に在り。鐘銘は左の如し。]
[やぶちゃん注:以下の鐘銘二種は底本では全体が一字下げ。一部に明らかな誤植誤字錯字脱字と思われるものが散見されるので、「新編鎌倉志卷之八」に載る鐘銘で補正した。]
大日本國武州六浦莊稱名寺鐘銘
降二伏魔力怨一。除ㇾ結盡無ㇾ餘。露地撃二楗槌一。菩薩聞當ㇾ集。諸欲二法聞一人。度二流生死海一。聞二此妙響音一。盡當三ㇾ雲二集此一。諸行無常。是生滅法。生滅滅已。寂滅爲樂。一切衆生。悉有二佛性。如來常住、無ㇾ有二變易一。一聽二鐘聲一。當ㇾ願衆生。斷二三界苦一。頓證二菩提一。文永己巳仲冬七日奉二爲先考先妣一結緣人等同成正覺鑄之。大檀那越後守平朝臣實時
改鑄鐘銘幷序〔入宋沙彌圓種述宋小比丘慈洪書〕
此鐘成二乎文永一。虧二乎正應一。寺而不ㇾ可ㇾ無ㇾ鐘矣。因勵二微力一幷募二士女一。更捨二赤金一。重營二靑鑄一者也。伏乞先考。超二越三有一。同二德於寶應聲一。逍二遙十地一。並位二於光世音一。曁二乎四生九類一。與二于一種餘響一。銘曰。洪鐘之起。其始渺焉。載二于周典一。稱二于竺篇一。質備二九乳一。形象二圓天一。聲聲觸處。聞聞入ㇾ玄。三界五趣。八定四禪。醒二長夜夢一。驚二無明眠一。之朝之夕。無ㇾ愚無ㇾ賢。凡厥聽者。同見二金仙一。正安辛丑仲秋九日大檀那入道正五位下行前越後守平朝臣顯時法名慧日當寺住持沙門審海行事比丘源阿大工大和權守物部國光山城權守同依光
[やぶちゃん注:以下、二種の鐘銘を底本本文の訓点ではなく、「新編鎌倉志」の影印訓点に従って書き下したものを示す。
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大日本國武州六浦莊稱名寺鐘の銘
魔力の怨を降伏し、結を除て盡く餘り無し。露地、楗槌を擊つ。菩薩、聞きて當に集まるべし。諸々聞法せんと欲する人、生死海を度流す。此の妙響音を聞きて、盡く當に此に雲集すべし。諸行は常無し、是れ生滅の法。生滅、已つて滅し、寂滅を樂と爲(す)。一切の衆生、悉く佛性有り。如來は常住して、變易有ること無し。一たび鐘聲を聽きて、當さに願ふべし、衆生、三界の苦を斷ち、頓に菩提を證せんことを。文永己巳、仲冬七日、先考先妣の奉爲(ををんため)に結緣人等同成正覺之を鑄る。大檀那 越後の守平の朝臣實時
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改め鑄る鐘の銘幷に序〔入宋沙彌、圓種述す。宋の小比丘、慈洪書す。〕
此の鐘、文永に成り、正應に虧く。寺にして鐘無きにはあるべからず。因りて微力を勵し、幷に士女を募り、更に赤金を捨て、重ねて靑鑄を營む者なり。伏して乞ふ、先考、三有を超越して、德を寶應聲に同じくし、十地に逍遙して、位を光世音に並べ、四生九類の曁びて、一種の餘響に與すらん。銘に曰く、洪鐘の起る、其の始め渺焉たり。周典に載せられ、竺篇に稱せらる。質、九乳を備へ、形、圓天に象る。聲聲、處に觸れ、聞聞、玄に入る。三界五趣、八定四禪、長夜の夢を醒し、無明の眠を驚かす。之コの朝之(こ)の夕べ、愚と無く、賢と無く、凡そ厥の聽く者、同じく金仙を見ん。正安辛丑 仲秋九日 大檀那 入道正五位下行前の越後の守平の朝臣顯時法名慧日 當寺の住持沙門審海 行事の比丘源阿 大工大和の權の守物部の國光 山城の權の守同依光
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●前の銘の語注
・「結を除て盡く餘り無し」は不詳。識者の御教授を乞う。
・「楗槌」は「けんつい」と読み、撞木のことであろう。
・「生滅、已つて滅し」の「已つて」は、「もつて」と訓じていると思われる。
・「先考先妣」「先考」は亡き父、「先妣」は「せんぴ」と読み、亡き母。
・「文永己巳」は文永六(一二六九)年。
●後の銘の語注
・「正應」は西暦一二八八年から一二九三年で、次の「虧く」は「かく」と読み、欠損したことを謂うから、前の鐘はたった二十年で鐘として要を成さなくなったことになる。龍頭が損壊して垂下出来なくなったか、鐘身そのものに亀裂が入ったかしたのであろう。
・「鐘無(き)にはあるべからず」影印は「無」の送仮名の最初が「シ」のようにも見えるが、一応、以上のように訓読した。
・「赤金」赤銅。厳密には銅に数%の金を含めた合金のことであるが、ここは単に鉄や銅のことを言っているものと思われる。壊れた旧鐘の錆びた様態を言っているのであろう。
・「三有」は「さんぬ」と読み、三界(欲界・色界・
無色界)の生存の様態を言う欲有・色有・無色有を指す。
・「寶應聲」ある種の経典では観音菩薩を宝応声ほうおうしょう菩薩と呼び、衆生の苦しみや歎きの声を観じて余すところなくそれに応じて宝(功徳)を恵むことを言う。
・「十地」菩薩が修行によって得られる菩薩五十二位の下位から数えて第四十一から五十番目の位。十廻向の上位、等覚の下位。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜。
・「光世音」やはり観音菩薩の古名。
・「四生九類」生物をその発生の様態から分類した胎生・卵生・湿生・化生(業により忽然と出生するもの)を四生ししょうというが、九類は不詳。何れにせよ、総ての生きとし生くる衆生総ての謂いであろう。
・「曁びて」は「およびて」と訓じた。「ビ」(若しくは「ヒ」)の送仮名の訓読はあまり自信がない。
・「與(す)らん」は取り敢えず「くみすらん」と訓じたが、自信がない。
・「渺焉」遙かに果てしなく響き渡る謂いであろう。
・「周典」礼記の周礼のことか。若しくは周易、易経のことかも知れない。
・「竺篇」サンスクリット語原典の一切経か。
・「五趣」応報によって輪廻する天上・人間・餓鬼・畜生・地獄の初期仏教の五悪趣。修羅を含めて六道とするのは後のことである。
・「八定四禪」一般的な禅の瞑想の十二段階を言う。因みにこれを越えて想滅受定なる域に至った後に解脱が来るとされる。
・「厥の」は「その」。
・「正安辛丑」は正安三(一三〇一)年。]
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