『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅴ)~了
〇金澤顯時同貞顯墓
當寺の大檀那(おほだんな)たりし金澤氏の墓は。後山の中腹に在り。共に五輪の石塔にして。高さ七尺餘なり。金澤文庫の創建者なれは文學に志あるもの士は。一辨の香を拈して可なり。
[やぶちゃん注:金沢貞顕は元弘三・正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)に高時とともに北条得宗家菩提寺であった鎌倉の東勝寺に移り、自刃した。享年五十六であった。
「七尺」二・一二メートル。「江戸名所圖会」に載る同父子の墳墓の図を掲げておく。
「一辨の香を拈して可なり」拈華微笑に引っ掛け、香華を供えつつ、その学究の遺志を遙かに思い致すのもよいというのである。]
○當時の什寶甚だ多し。今一〻摘記(てきゝ)せず。其の中の古文書を擧れは左の如し。
[やぶちゃん注:「當時」の「時」は「寺」の誤植であろう。割愛は明らかに紙数が尽きてきたから。本誌本文は残り、二頁ほどしかない。更に言えば、この資料は「江戸名所図会」の引き写しに過ぎない(それを参考に一部の訓点を修正した)。以下、古文書部分は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。一部に読み易さを考慮して底本にない字空けを施した。各書状を分離させて注を施した。]
北條陸奥守制札
金澤阿彌陀堂稱名寺敷地幷垣場等之事
右於二當所一軍勢幷甲乙人等、不ㇾ可ㇾ致二濫妨狼藉一、若於下令二違犯一輩上者、爲ㇾ被ㇾ處二罪科一、可ㇾ致ㇾ注二申交名一之狀、依ㇾ仰執達如ㇾ件、
康安二年五月二十四日 陸奥守 華押
[やぶちゃん注:書き下す。
北條陸奥守制札
金澤阿彌陀堂稱名寺敷地幷びに垣場等の事
右、當所に於いて軍勢幷びに甲乙人等、濫妨(らんばう)狼藉致すべからず。若し違犯せしむる輩に於いては、罪科に處せられ、交名(けうみやう)を注申致さるべきの狀、仰せに依つて執達、件(くだん)のごとし。
康安二年五月二十四日 陸奥守 華押
「交名」は該当の処罰者の名を書き連ねた報告書のこと。氏名をこの制札どうも不審でしょうがない。「康安二年」は西暦一三六二年で幕府崩壊後の南北朝期であるが、当時「北條」姓で「陸奥守」であった人物を探し得ないのである。この資料は現在の金沢文庫蔵資料データの康安二
(一三六二) 年のクレジットを持つ「関東管領高師有制札」(整理番号201資料)ではないかとも思われるが、高師有(こうのもろあり)は「北條」姓ではない。但し、彼の関東執事在任期間は一三六二年四月から一三六三年二月までで合致し、「陸奥守」ででもあった模様である(厳密には彼は関東執事であるがこの当時は関東管領と同称していた模様である)。現在、自宅で調べるにはここまでが限度である。「神奈川県史」(4414番資料)に載るらしいので、その内、調べてみるつもりではあるが、出来れば識者の御教授を乞いたい。]
永享十一年稱名寺領結解狀
註 進
稱名寺領赤岸十四ケ村御年貢錢〔永寛十〕結解狀事
合八十一貫文内
六十九貫六百文 寺 納
八貫文 代官給
一貫文 德妙衣料
八百文 夫領路錢〔兩度四人分 年貢運上時〕
三百文 今津問方酒直
三百文 六浦六郎方禮儀替錢之時
已上八十貫文
右所二勘定一狀如ㇾ件
永享十一年三月三日 政所憲意 判
[やぶちゃん注:「永享十一年」西暦一四三九年。以下の割注の「永寛」は原本の永享の誤記と思われる。
「結解狀」「闕解」は「けちげ/けつげ/けけ」と読む。原義は勘定の始末をつけること・決算することの謂いであるが、多くの場合は荘園の経営に当った荘官が、現地で年貢及び公事の収支決算を行うことを「結解を遂ぐ」と称し、現地から領家に対してそれを報告した文書を「結解状」と言った。平安時代には官物の結解作法があって郡司や郷司が作成した結解状を税所→目代→国司へと上呈して国判を受けた例がみられる。鎌倉時代中期からは年貢収納が代官による請負となったり、現地の未進分増加・支出増加によって荘園内に於ける決算を要するようになった結果、代官から注進状の形式で領家に対して決算報告の結解状を送るようになった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。これはそうした収益としての年貢の支出内訳らしいが、小項目「德妙衣料」(寺僧の僧衣代?)・「夫領路錢〔兩度四人分 年貢運上時〕」(寺領から年貢を四名で運搬した際の手間賃か?)・今津問方酒直(「今津」は姓か? 「問方」は査察官で「酒直」とは饗応代?)・「六浦六郎方禮儀替錢之時」(平凡社「世界大百科事典」によれば「替錢」は「かえぜに」(「「かはし」とも)で、鎌倉・室町期に於ける送金手段をいう。鎌倉中期辺りに発生した現代の為替(かわせ)の始りで現金輸送が極めて困難な時期に年貢などを遠隔地の荘園から京都の荘園領主に送る場合や、社寺参詣の旅費を調達する場合などの遠隔地に対する支払手段として発達、さらに室町時代に入ると商品取引の決済手段として利用された。ここは年貢運上の取り纏めをした現地の有力者である六浦六郎なる人物(廻船業?)への礼金ということか?)のがよく分からない。識者の御教授を乞うものである。
「右所勘定狀如件」は「右、勘定する所の狀、件のごとし」と読む。
「政所憲意」この当時は永享の乱の余波の混乱期であった(将軍足利義教が調停役関東管領上杉憲実の助命嘆願も聞き入れずに鎌倉公方足利持氏及び嫡子義久を攻め滅ぼしたのが本状の発行された一月前の永享十一年二月であることに着目されたい)。この「憲意」は「憲實」の誤読(若しくは子の「憲忠」とも似る)であろう(「江戸名所図会」も「意」)。]
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