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2014/09/22

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 76 物書きて扇引きさく余波(なごり)哉

本日二〇一四年九月二十二日(陰暦では二〇一四年八月二十九日)

   元禄二年八月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十二日

【その二】金沢からついて来た立花北枝が芭蕉と別れたのは何時であるかは判然としないが(曾良と別行動となったために、山中以降は事実を推測するための一次資料が失われている)、芭蕉にはここで出来るだけ辛く孤独な旅をして貰おうと思う(但し、推定では福井の等栽宅までの、その手前の越前丸岡(現在の福井県吉田郡永平寺町。以下に見るように芭蕉は総ての箇所で「松岡」「丸岡」と徹底的に誤っている)から凡そ十キロメートルばかりの短い間のみとは思われるのであるが、これについては、山本胥氏が「芭蕉 奥の細道事典」(講談社α文庫)で述べておられるように、『芭蕉の生涯で、ひとり旅の初体験といえる。旅好きの芭蕉だが、ひとり旅は苦手のようだった。苦手というより、できない人だった、といったほうがよい』(四四九頁)という見解に私は激しく同意するものである。芭蕉が同行者なしに覚悟の旅に出たのは――他には実に――死出の旅路きりであったのだ……)。

 

物書(かき)て扇引(ひき)さく余波(なごり)哉

 

もの書て扇子引きさく名殘(なごり)哉

 

  松岡にて翁に別(わかれ)侍(はべり)し

  時、あふぎに書て給(たまは)る 

もの書て扇子へぎ分(わく)る別(わかれ)哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「泊船集」(風国編・元禄十一年)の、第三句は「卯辰集」(楚常(そじょう)撰・北枝補・元禄四年刊)。の句形で、この第三句が初案。「卯辰集」巻三には、

 

  松岡にて翁に別侍りし時、あふぎに書きて

  給はる。

もの書て扇子へぎ分る別哉    翁

    笑うて出づる朝きりの中 北枝

  となくなく申し侍る。

 

と北枝が脇を付けている。

 「へぎ分くる」というのは、扇の両面を骨で合わせてあるのを、剝(へ)ぎ分ける、剝いで二つとするの謂いである。諸家はこの改案をそれぞれにあからさまとか、意に寓するとか、なんだかんだと言っているが、私はこの「へぐ」も「わくる」も遺体を剖検しているような、甚だ不快な響きを感じるので、純粋に音韻的に初案を支持しない。本句の「引き裂く」を尋常でないとして、この折りの北枝との関係を詮索する方(山本胥氏など)もいるが、寧ろ、芭蕉は曾良との痛恨の訣別の後、自身を殊更に孤客とせんとした意識を強く感じるものである。少なくとも、私は「扇引きさく」に、立枝との人間関係の不具合を読む気には全くならないとだけ言っておこう。実際には扇を裂いて分け合ったのではなく、芭蕉が一筆ものした扇を与えたものであろうが、そこには寧ろ、これも一種の公案の応答の一つの所作と私には読める。安東氏も「古典を読む おくのほそ道」で、『無(白扇)を捨てることはできぬが、さりとて書けば捨扇(無)にならぬ、という絶対的矛盾に禅機をもとめた句である。つまり、「物書て扇引さく」とは別れずに済す工夫である』と禅問答風に分かったような分からぬような(公案を出されて「作麼生」(そもさん)と促されたその答えとはそもそもがそのようなものである)評釈を述べておられて小気味よい。

 「奥の細道」の汐越の松から北枝との別れの段。

   *

越前の境吉崎の入江を舟に

棹指て汐越の松を尋

          西行

  終宵嵐に波をはこはせて

   月をたれたる汐越の松

この一首にて數景盡たり若一

辨を加ルものは無用の指を立るかこ

とし

丸岡天龍寺の長老古き因あれは

尋ぬ又金澤の北枝と云ものかりそ

 したひ

めに見送りて此處まて來ル所々

の風景過さすおもひつゝけて

折節あはれなる作意なと聞ゆ

今既別に望みて

  物書て扇引割名殘哉

   *

「吉崎」現在の福井県金津町。蓮如が開いた吉崎御坊があり、浄土真宗の聖地としても知られていた。

「汐越の松」「しほこしのまつ」と読む。吉崎の対岸の浜坂にある岬にあった松で、名は海浜に延びた枝が潮をかぶったことに由来する歌枕。現存しない。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「汐越の松」に苦労された探訪記と無惨な跡の画像が載る。

「終宵(よもすがら)嵐(あらし)に波を運ばせて月を垂れたる汐越の松」これは西行の和歌ではなく、蓮如の作であるが、芭蕉の頃には西行作という俗伝も行われていた、と新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富山奏氏の注にある。

「丸岡」冒頭に述べた通り、松岡の誤り。

「天龍寺の長老」清涼山天龍寺は現在の福井県吉田郡永平寺町松岡春日にある曹洞宗永平寺末寺。藩主松平家菩提寺でもある。当時の松岡は松平昌勝五万石の城下町であった。「長老」は禅寺の住持を指す語。当時は大夢(たいむ)和尚で、彼はかつて江戸品川にある曹洞宗寺院、瑞雲山天龍寺の住職であったことから芭蕉とは旧知の仲であった。

「北枝」立花北枝(生年不詳~享保三(一七一八)年)。ここで詳細を注しておく。通称は研屋源四郎。金沢に住み、刀の研師を業とする傍ら、俳諧に親しんだ。元禄二年のこの時、蕉門に入り、後、加賀蕉門の中心人物として活躍したが、無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになった際には、

 燒にけりされども花はちりすまし


と詠んで芭蕉の称賛を得たエピソードは有名で、世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢が窺える(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

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