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2014/09/21

耳嚢 巻之八 石中蟄龍の事

 石中蟄龍の事

 

 江州の富農石亭(せきてい)は、名石を集め好むの癖あり。既に雲根志(うんこんし)といへる愛石を記したる書を綴りし事は、誰(たれ)しらぬ者なし。或年行脚の僧、是(これ)がもとに泊り、石亭が愛石の分(ぶん)を一見しけるゆゑ、石亭も御身も珍石や貯へ給ふかと尋(たづね)しに、我等行脚の事ゆゑ更に貯(たくはふ)る事なけれど、一つの石を拾ひ得て常に荷の内に藏す、敢て不思議もなけれど、水氣を生ずるゆゑに愛する由語るを聞(きき)、もとより石に心を盡す石亭なれば、強(しい)て所望して是を見るに、其色黑く一拳斗(ひとこぶしばかり)の形にて、窪(くぼ)める所水氣(すいき)あり。石亭感心無限(かぎりなく)、何卒お僧に相應の代(しろ)もの與(あたへ)ん間、給(たまは)るべきやと深切にもとめければ、我(わが)愛石といへども、僧の事敢て輪廻(りんね)せん心なし、打鋪(うちしき)にても拵へ給はらば、頓(とみ)に與へんといゝしゆゑ、石亭大に歡びて金※(きんらん)の打鋪を拵へ與へて、彼(かの)石とかへぬ。扨(さて)机上に置(おき)、硯の上におくに、淸淨の水硯中に滿(みち)てそのさまいはんかたなし。厚く寵愛なしけるを、或る老人つくづく見て、かく水氣を生ずる石には果して蟄龍有(ある)べし、上天(しやうてん)もなさば大きなる憂(うれひ)もあらん、遠く捨(すて)給へと申けれど、常に最愛なしける石なれば曾(かつ)て其異見に隨はざりしが、有時曇りて空さへきる折柄、右石の中より氣を吐(はく)事尋常ならざれば、大きに驚きて、過(すぎ)し老人の言(いひ)し事思ひ出(いで)て村老近際の者を集めて、遠き人家なき所へ遣すべしといゝしに、其席に有(あり)ける老人、かくあやしき石ならばいかなる害をやなさん、燒(やき)捨(すつ)べしと云(いひ)しを、左(さ)はすまじきとて、人離れたる所に一宇の社堂有し故、彼(かの)處へ納置(をさめおき)て皆々歸りぬ。然るに其夜風雨雷鳴して彼(かの)堂中より雲起(おき)、雨烈敷(はげしく)、上天せるものありしが、跡にて右堂に至り見しに、彼(かの)石は二つにくだけ、右堂の樣子、全(まつたく)龍の上天なしける體(てい)なりと、村中奇異の思ひをなしぬ。其節彼(かの)やきうしのふべしと發意(ほつい)せし者の宅は、微塵(みじん)になりしと人の語りぬ。

[やぶちゃん字注:「※」=「糸」+「蘭」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:硯中の龍の話柄で連関するが、こちらは本格物である。但し、ストーン・フリークの石亭がこうした実体験をしていたら、「雲根志」に書かぬはずもなく、刊行後なら、これだけで単独の奇瑞として書き残して世に喧伝されるレベルの奇譚であればこそ、全くの都市伝説に過ぎぬ。そもそもが話柄の後半は真正博物学者たる石亭なら絶対にしない行為であることは言を俟たない。彼なら危険を冒してでも堂の近くに仮小屋を建てて成り行きを観察するからである。私もそうする。そうして、そういう話柄を作ってこそ本話のホントらしさは生まれてくる。私なら絶対にそう創り変える。それが怪談のリアリズムのキモになる部分だと言ってもよいからである。なお、この話は先行する「耳嚢 巻之三 玉石の事」を容易に想起させ、私はそこで参考に引いた「雲根志 後編卷之二」にある「生魚石 九」の類話を直ちに連想したが、そこで久し振りに「雲根志」を手に執ってそこを開いてみると、何とまあ、その次に「龍生石 十」の項があるではないか!……それを一読したところが、何のことはない、本話はこの「雲根志」の記載から(但し、それは硯石ではなく、石の形状も全く異なる有意に大きなものである)文才のない誰かが主人公を安易に作者石亭に変え、如何にもな、入手奇譚を添えて作り出したところの、まっこと安っぽい都市伝説の類いであったことが判明したのである。以下に引用するので方々、御自身で御判断なさるるがよい(底本は昭和五四(一九二九)年現代思潮社復刻になる「日本古典全集」版を用いたが、句読点がなく、やや読みづらいので独自に諸記号を加えてある。一部ルビに衍字があるので除去した)。

 

     龍生石(りやうせうせき)

 

或縉紳家(しんしんか)に御珍藏の一石あり。五色を備へて、大さ、升(ます)のごとく、尤も美觀なり。故に、御愛賞、甚だ厚し。其初、何方(いづかた)より得給ふや産所もさだかならず。當時、伊藤仁齋(いとうじんさい)を召してこれを見せ給ふに、仁齋云、「是、龍を生するの石なり。高貴の御手にふれさせらるゝ物にあらず。遠くすてさせらるべき」よし申上らるれとも、一かたならぬ御祕藏なれば不興氣(ふけうげ)にて下賀茂(しもがも)より壹丁北の野中に小祠(ほこら)を建て、をさめ給ふ。其後十年余過(すぎ)て、彼(か)の小祠、微塵(みぢん)に碎て龍上天したりと。其時、仁齋、已に沒せられて後也と。漢書(かんじよ)に載る、新豐後湖觀音寺(しんほうごこくわんおんじ)西岸に得たるといふ「龍石」なるもの、是なるべし。

 

 簡単に語注しておく。

●「縉紳家」笏(しゃく)を紳(おおおび=大帯)に搢(はさ)む(=挟む)者の意で高位高官身分の高い人のこと。

●「伊藤仁齋」(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)は江戸前期の儒者。名は維楨(これえだ)。京都の商家の出。朱子学を批判して「論語」「孟子」の原義への回帰を主張した。寛文二(一六六二)年、京都堀川の自宅に塾古義堂を開いて古義学派(堀川学派)の祖となった。自由で実践的な学風で、広い階層にわたる門弟三千人をあつめた。著作に「論語古義」「孟子古義」等(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

●「壹丁」約百九メートル。

●『新豐後湖觀音寺西岸に得たるといふ「龍石」』「新豐」は現在の広東省韶関市新豊(しんほう)県か。「後湖觀音寺」は不明。但し、中文の「大紀元文化網」の「古籍中關於龍的記載:五色石」によれば、「梁四公記」に出るとして(一部の記号と字体を変更した。下線やぶちゃん)、

天目山人全文猛、在新豐後湖觀音寺的西岸、得到一塊如鬥大的五色石頭。石頭的紋彩盤旋緊蹙、好像有夜光。全文猛認爲它是神異之物、就把它獻給了梁武帝。

樑武帝很高興、把五色石放在大極殿旁邊。將近一年多一點的時間、這塊石頭忽然光芒四射、發出雷一樣的響聲。樑武帝以爲這是不祥之物、就召來傑公、把這石頭給他看。傑公説、「這是上界的活龍變成的石頭、不是人間的東西。如果用洛水的赤礪石和上酒、合成一種藥、用這藥把這石頭煮沸一百次、這石頭就變得柔軟可食了。把它雕琢成飲食器皿、能使人延長壽命。只有有福有德的人才享用得了的。如果有聲、龍就要下來取它了。」

梁武帝派人去取來赤色礪石、就像傑公的那樣,命工匠把石頭雕琢成五斗大的盆、用來盛御膳。用這種盆盛的飯菜、格外香美、與眾不同。把雕琢剩下的石頭、又放到原來的地方。

忽然有一天、一條紅色的龍、張牙舞爪地掉進大極殿、抱著那些石頭就騰躍而去。梁武帝派人推求驗此事、原來這塊五色之石是普通二年、始平郡石鼓村、鬥龍競賽用的石頭。雕成的那個盆、侯景之亂以後、也不知道去哪兒了。

とあるのを指すのであろう(言っておくが私はこの漢文が読めている訳ではない)。

・「石中蟄龍」「せきちうちつりやう(せきちゅうちつりょう)」と読んでおく。老婆心乍ら、「蟄龍」とは普通は地面の下に凝っと潜んでいる龍の謂いで用いるのであって「蟄龍」という種を指すものではない(龍の種については私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を参照)。これも言わずもがな乍ら、一般には活躍する機会を得ずに世に隠れている英雄を喩える語として用いる。

・「石亭」木内石亭(きうち/きのうち せきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年四月六日)。奇石収集家で本草学者。幼名は幾六。諱は重暁(しげあき)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)の捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となった。安永四(一七五一)年に大坂に赴き、津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では稀代の本草学者でコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)と同門であった。宝暦六(一七五六)年には江戸に移って田村元雄(藍水)に入門、平賀源内らと交流した。十一歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、二千種を超える石を収集した。収集した奇石の中には鉱物・石製品・石器・化石も含まれており、分類や石鏃の人工説をも唱えていることから考古学の先駆者とも評される。また、弄石社を結成して諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割をも果たした。著作に「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)「奇石産誌」などがあり、シーボルトが著書「日本」を記すに当っては石器や曲玉についての石亭の研究成果を利用している(以上は主にウィキの「木内石亭」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。彼の亡くなった日付を見て戴きたい。私はこの話柄、石亭が亡くなったことを聴き知った誰彼が、最早、本人もおらずなったればこそとて、作り出したまさに出来立てのホットな都市伝説であった可能性を感ずるのである。

・「打鋪」仏前の仏具などを置く卓上に敷く敷物。

・「さへ」底本は右に『(冴)』と傍注する。

・「やきうしのふ」底本は右に『(燒失)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 石の中に潜みし龍の事

 

 近江国の富農に木内石亭(きのうちせきてい)と申すは、これ、名石を集めては好むところの、奇体なる性癖の持ち主で御座った。既にして「雲根志」と申す、己れの愛石やそれに就いての薀蓄を、こと細かに記したるところの奇書を綴ったることは、これ、誰(たれ)一人知らぬ者とてない。

 

 さて、とある年のことで御座った。

 行脚の僧の、この石亭が元に泊ったるが、石亭のその異様なる愛石の思い入れに、よう、耳傾け、その集めたるところの品々をも、これ、如何にも興味深(ぶこ)う見て御座ったったによって、石亭、すかさず、

「……御身も、これ、珍石を蔵しなさるるか?――なさるる、ナ?!」

と尋ねたところが、

「……いや……我ら、行脚の身の上なれば……さらに何かに惹かれて貯うると申すことは御座らねど……ただ……実は……一つの石を拾い得て……これ、常に荷の内に蔵しては……御座ってのぅ。……これと申して、格別なる不思議も御座らねど……その石、これ、いつ何時も……水気(すいき)を生ずるがゆえに……いや、お恥ずかしいことに……秘かに偏愛致いては、御座る……」

と語ったるを聴くや、これはもう、もとより、石に執心尽くしたる、執心が石のように堅固なる石亭のことなれば、殊更に切に一見せんことを請いては、半ば強引に引き出させて、しげしげ、見たところが……

――その色、黒うして、まずは大人の一拳(ひとこぶし)分ほどの大きさと形を成せるものにして、表面に窪んだるところあって、そこには、これ、はっきりと、水気(すいき)のあるが見てとれた。

 石亭、深く感心致すこと、これ、尋常ならず、

「何卒! そうさ! 御僧に相応しきところの、これ、如何なる代物(しろもの)にてもよい! これ、必ず、差し上ぐるによって! 一つ、この石! これ、給はることは出来ませぬかッ?!」

と、半ば目を血走らせつつ、その石を請うた。

 すると、僧は、

「……我が愛石とは申せ、そもそも我ら、僧なればこそ、敢えて妄執存念因縁によって六道(ろくどう)を輪廻せんという心は、これ毛頭、御座らねばこそ……それでは……そうさ、ただの打敷(うちしき)なんどを、これ、拵えて下さったを頂戴致いたならば、これ、仏の道にも外るること、御座いますまい。……今直ぐにても、この石、貴殿に進ぜんと思うて御座る。」

ときっぱりと請けがったによって、石亭、大きに歓び、即座に金襴(きんらん)の打敷を拵えさすると、それを僧に与え、かの石と交換致いたと申す。

 

 さてその翌日のこと、石亭、この石を文机(ふみづくえ)の上に置き、また、それを取って、横に置いた硯の上に、徐ろに移し置いたところが……これ……

――如何にも清浄なる水の

――硯の池の中(うち)に満ち満ち

――そのさま

――全く以って曰く言い難き

――一種の奇瑞……

……とてものこと、あれこれ評すべきことも憚らるるほどの奇跡の石にて御座ったと申す。

 

 石亭はそれ以後、この石を格別なものと見做し、懇ろに扱っては、殊の外、偏愛致いて御座ったと申す。

 

 ところが、近隣に住もうて御座った、とある老人が石亭を訪ねた折り、件(くだん)の水気を出だす愛石をつくづくと見るや、

「……かくも水気を生ずるところの石には、これ、果して龍の封じ込められておるに相違ない!……昇天なんど成したならば、これ、貴殿にとって大いなる憂いともならんかと存ずる!……されば、言い難きことなれど、これ、何処か遠くへ捨てらるるに、若くは御座らぬ!」

と、語気強く言うたと申す。

 されど、流石に、寵愛一方ならぬ石にてあったればこそ、石亭、遂にその忠言には随わずに過ぎたと申す。

 

 ところが、その後の、とある日のことで御座った。

 黒雲俄かに湧き起こって、空の隅々に至るまで、遮り覆って御座った折柄……

――かの石

――その中(うち)より

――尋常ならざる気を

――大きに吐き始めた……

……されば、石亭を始め、屋敷内の下々の者に至るまで、これ一人残らず、その異様なる噴気のさまに大いに驚いた。

 石亭は、過ぎし日の、かの老人の忠告を思ひ出だいて、取り敢えず、村の老人やら近際の者やらを屋敷に集めて、

「……ともかくも、これ、遠き人家のなき所へ、うち遣らずばなるまい……」

と申したところが、その席にあった、さる老人、

「――かくも妖しき石ならば、これは、如何なる恐ろしき害を齎すか、分かったものではない! 即座に燒き捨つるに若くはなし!」

と乱暴に言い捨てた。

 されど、ここに至っても石亭、未練のあったものか、 

「……いいや……それはいくらなんでも……出来ぬ相談じゃてのぅ……」

と押し止め、「ともかくも」と、同地より暫く行ったところの、人離れたる所に、一宇(いちう)の小さき無人なるお社(やしろ)のあったによって、「とりあえずは」とて、その御堂(おどう)へ納めおいて、皆して帰ったと申す。

 

 然るに、その夜のこと、激しき風雨の中に、尋常ならざる雷鳴の致いたかと思うと、かの堂中より、もくもくと雲の起こって、天海の海底(うなぞこ)に大穴の空いたかと思わるるほどの、土砂降りの雨、これ、激しく降る!……と……

……何やらん

……天へと昇って行く……

……うねりつつ……

……長々としたるものの……

……影の……

……見えた……

 

 翌日は晴れた。

 されば石亭と村人の何人かが、かの堂へと参って見てみたところが……

――かの石は……

――二つに砕け散っており……

――堂前の扉(とぼそ)はばらばらに吹き飛び……

――堂の天井の真ん中には……

――これ、大きなる穴の……

――内側から、何ものかが突き破ったように開いて……

――真っ青な空が……のぞいておった……

 

「……いや! かの石の、かの御堂のさまから見て、これは全く以って、龍の昇天致いたに相違なき体(てい)じゃった!」

と誰彼の噂にて、村中の者は皆、奇異の思いをなしたと申す。……

……因みに……かの折りに「焼き捨つべし」と発意(ほつい)致いたる老人の屋敷は……これ……何ものかが上より押し潰したかのように……粉微塵となって……御座ったそうな……

 

 これ、さる知人の語って御座った話である。

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