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2014/09/30

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 若狹前司泰村舊跡

    ●若狹前司泰村舊跡

若狹前司泰村か舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。東鑑に寛元三年七月六日、將軍家御方違(ごはうゐ)して、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ、泰村か家は御所より北の方なりとあり。按するに將軍は賴嗣なり、賴嗣の屋敷は若宮大路なれは此所(このところ)正北(まきた)なり、鎌倉物語に賴朝屋敷の北と書(しよ)せり、將軍の御所より北に當るとあるを見て賴嗣も賴朝屋敷に居せられたりと心得たり。泰村は三浦平六兵衞尉義村か長子なり、甚だ權威あり寶治元年六月五日、一門悉く亡ふ。

[やぶちゃん注:三浦泰村邸跡。この叙述はまるまる「新編鎌倉志卷之一」からの引用で、「按」じているのは筆者ではない。しかも途中を省略してとんだ誤りを犯してもいる。以下に総てを示してそれを明らかにしておく。

   *

○若狹前司泰村舊跡 若狹(わかさの)前司泰村が舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。【東鑑】に、寛元三年七月六日、將軍家、御方違(をんかたたがへ)として、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ。泰村が家は、御所より北の方也とあり。按ずるに、將軍は賴嗣也。賴嗣の屋敷は若宮大路なれば、此の所ろ正北なり。【鎌倉物語】に、賴朝屋敷の北と書せり。將軍の御所より北に當ると有を見て、賴嗣も、賴朝屋敷に居せられたりと心ろ得たり。【東鑑脱漏】を未見ゆへに、賴經將軍の時、嘉禎二年に、若宮大路へ遷られしと云事を知らざる歟。賴經屋敷の事は、賴朝屋敷の條下に詳也。泰村は、三浦平六兵衞尉の義村が長子也。甚だ權威あり。寶治元年六月五日、一門悉く亡ぶ。

   *

「若狹前司泰村」三浦泰村(元暦元(一一八四)年~宝治元(一二四七)年)は義村の次男。承久三(一二二一)年の承久の乱の際、父とともに北条泰時に従って宇治川合戦で戦功を立てる。嘉禎三(一二三七)年に若狭守、暦仁元(一二三八)年には評定衆に補せられ、延応元(一二三九)年、父の死によって家督を継ぎ、三浦介相模守護となって幕府内に絶大なる権威を有するようになったが、宝治元(一二四七)年、時頼と安達景盛の策略に嵌まった泰村は鎌倉で挙兵するも大敗、法華堂の頼朝の御影の前で一族郎党とともに自害した。

「寛元三年」西暦一二四五年。以下、「吾妻鏡」の同日の条を示す。

○原文

六日戊戌。天晴。將軍家爲御方違。渡御若狹前司泰村之家。御騎馬也。供奉人皆爲歩儀。是入道大納言家令奉讓御所於將軍家給之間。來十日。可被建御厩侍北對。依當西方。爲令違秋節給也。泰村家自御所北方也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

六日戊戌(つちのえいぬ)。天、晴る。將軍家、御方違(おんかたたがへ)の爲、若狹前司泰村が家へ渡御す。御騎馬なり。供奉人は皆、歩儀たり。是れ、入道大納言家、御所を將軍家に讓り奉らしめ給ふの間、來る十日、御厩侍(おんうまやざむらひ)を北の對(たい)に建らるべきに、西方に當るに依つて、秋節を違(たが)へせしめ給はんが爲なり。泰村が家は御所より北方也と云々。

この「入道大納言家」は先の第四代将軍藤原頼経のこと。反幕派の関東申次として宮中で勢力を伸ばしていた父九条道家とともに、執権北条経時との関係が悪化、この前年の寛元二(一二四四)年五月五日、経時によって将軍職を嫡男頼嗣に譲らされ、この前日の七月五日に鎌倉の久遠寿量院(頼朝の持仏堂であった法華堂が発展した後代の名称と思われる)で出家している。以下、ウィキ藤原頼経」によれば、『その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され』、当代の執権時頼によって、寛元四(一二四六)年に『京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた』。その後、宝治元(一二四七)年に『三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)』。また、建長三(一二五一)年『足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる』が、結局、建長三(一二五二)年には頼嗣も『将軍職を解任され、京都へ送還され』てしまい、『まもなく父・道家は失意の内に没した』。頼経は四年後の康元元(一二五六)年八月に赤痢のために三十九歳で京で死去、翌月には頼嗣も死去した。『この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之』氏は吉川弘文館「鎌倉北条氏の興亡」・新人物往来社「鎌倉・室町人名事典」の九条頼経の項目(共に奥富による執筆)などで、九条家三代の『短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している』とある。

「御方違(ごはうゐ)」読みは誤り。

「鎌倉物語」医師で貞門の俳諧師にして仮名草子作家であった中河喜雲(寛永十三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)が万治二(一六五九)年に菱川師宣画で出した仮名草子。通俗鎌倉名所記。]

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