『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅰ)
●稱名寺
金澤に游びて。先つ尋ねべき者は稱名寺なり。寺は町屋村に在り金澤山と號し。彌勒院と稱す眞言律宗にして。南都の西大寺に屬す。當寺は文永年間。
亀山天皇の勅願所にして。北條越後平實時の本願。其の子顯時の創立せし所に係る。
[やぶちゃん注:次の段落「卒とあり」までは底本では全体が一字下げ。]
實時を稱名寺と號し。又法名を正慧(せうけい)といふ。此地に居住せらる。顯時より金澤を家號とす。顯時法名を慧日と號す。靈牌に弘安三年三月二十八日に卒(そつ)とあり。
本尊彌勒菩薩は。西土傳來にして。立像五尺五寸あり。傍に運慶の作の地藏尊の木像二軀を安す。開基は審海和尚なり。
昔時(むかし)北條氏繁榮の時は魏然たりし伽藍なりしも歳月を經(へ)るに隨ひ。金澤文庫も終に頽廢し。佛宇も自ら蕭條(しやうぢやう)に歸せり。唯(ただ)古來の名刹なるを以て。此地に遊ふ者は必らず杖を曳くを例とす。其の現況を叙せむに。
[やぶちゃん注:長いので、分割して注を附す。
「文永年間」西暦一二六四年~一二七四年。称名寺は正嘉二(一二五八)年、金沢流北条氏の実質的な初代金沢実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされるが、後の文永四(一二六七)年に鎌倉の極楽寺の忍性の推薦により、下野薬師寺(現在の栃木県下野市にあった戒壇を持った真言律宗の寺院)僧審海を開山に招いて正式な真言律宗寺院となった。
「弘安三年三月二十八日」正安三(一三〇一)年の誤り。
「五尺五寸」約一メートル六七センチ。]
【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】
山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 称名寺の図
[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。左欄外に手書き文字で「稱名寺の圖」とキャプションがある。]
« 杉田久女句集 273 花衣 ⅩLⅡ 宇佐神宮 五句 附 杉田久女「息長帶姫命の瓊のみ帶について」 | トップページ | 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅱ) »