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2014/09/22

耳嚢 巻之八 雷死を好む笑談の事

 雷死を好む笑談の事

 

 近き頃にや、茶屋四郎次郎家來に、大酒をなすといふにはあらねどあくまで酒を好みし老人有(あり)しが、我は雷にうたれ死(しな)ん事をねがふと常に言ひしを、いかなる物好(ものずき)にやと笑ひければ、さればとよ我(われ)數年酒を好み、或(ある)は欝を散じあるは寒暑をしのぎて、酒の恩を請(うく)る事報ずるに所なし、しかるに我(われ)何病にて死するとも、自害して死するとも、酒ゆゑなりと、子弟は勿論酒に科(とが)を負(おは)せん、恩は報ひずとも、酒に惡名付(つけ)んこそ心うけれ、雷にうたれ死なば其(その)愁(うれひ)なし、是(これ)によりてねがふなりといゝし。可笑(をかしき)事ながら、尤(もつとも)の一言(ひとこと)と人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇人譚。

・「茶屋四郎次郎」底本の鈴木氏注に、『幕府の呉服所。初代四郎次郎(清延)は家康に属して戦功あり、二代清忠以後幕府調達を家職とした』とある。呉服所とは幕府・禁裏・大名家などに出入りして衣服類などを調達した呉服屋をいい、別に金銀の融通もした。呉服師。ウィキに「茶屋四郎次郎があり、それによれば、『安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった』とあり、『正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業』大永年間(一五二一年~一五二七年)に『京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け』、実に百六十年に亙って本拠としたとある。『初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる』。但し、十代目の延国(延因)時代の寛政一二(一八〇〇)年には納入価格を巡って呉服御用差し止めを受けてしまい、文化七(一八〇七)年に『禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した』とあるから、執筆推定下限を文化五(一八〇八)年夏とする本巻執筆当時は、まさにその差し止めを受けていた当時であることが分かる。『江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる』とある。また、蛸薬師下ルにあった本邸は宝永五(一七〇八)年の『大火によって焼失し、上京区小川通出水上るに移転した。このためこの付近は茶屋町と呼ばれ』、また、『左京区北白川の瓜生山に別荘を持っていたことから、一帯の丘陵を古くは「茶山」と称した』とあって、さらに『清延三男の新四郎長吉(長意)は尾張藩に下り、尾張茶屋家(新四郎家)を創設した。尾張茶屋家は尾張藩主の御側御用と、本家同様公儀呉服師も勤めた。また新田開発に従事し、茶屋新田・茶屋後新田を拓いた。蓬左文庫には尾州茶屋家文書が収録されている』とあるから、本家が幕府差し止めを受けていても、こうした分家子孫が本家を支え、相応の家格を維持し得たものか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雷死(らいし)を好むという冗談の事

 

 近き頃のことであろうか、旧幕府呉服所で御座った茶屋四郎次郎家の家来に、大酒(おおざけ)を呑む、という訳ではないものの、ともかくも酒を好める老人があった。

 この老人、常日頃より、

「我らは雷に打たれて死なんことを願(ねご)うて御座る。」

と真顔で申しておったを、ある人、

「……それはまた、奇体。……如何なる謂いの物好きか?」

と、笑って訊ねたところが、

「さればとよ。我ら永年、酒さまを好み、或いはそれで気欝を散じ、或いは寒暑を凌いで、実に深き酒さまの恩を請けて御座った。されど、それに報いる法、これ、御座らぬ。然るに、あろうことか、周囲にては言うにこと欠いて、身共が何かの病いにて死するとも、自害して死するとも、これ、須らく酒の所為(せい)、なんどと申すによって、我らに孝を尽くす子弟には勿論のこと、何より、酒さまに、どうして科(とが)を負わせ申しあぐること、これ、出来よう?! さればこそ、恩は報いずとも、酒さまに悪名(あくみょう)をつけ奉らんことこそ、心憂きことじゃ! ゆえに、酒さまとは無縁と誰もが請けがうところの、雷に打たれて死ぬるならば、そうした愁い、これ、御座らねばの! これによって、我ら、雷死を願(ねご)うておるのじゃて!」

と、言い放った。

 

「……いやいや、もう、おかしきことで御座れど……しかしこれ、聴きようによっては、もっともなる一言(いちごん)では御座いますまいか。」

と、ある御仁の語って御座った。

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