杉田久女句集 286 菊ヶ丘 Ⅰ
菊ヶ丘(昭和十年より昭和二十一年まで)
[やぶちゃん注:「菊ヶ丘」久女は昭和六(一九三一)年四月に、大正七(一九一八)年八月より住んでいた当時の小倉市堺町から同市富野菊ケ丘(現在の福岡県北九州市小倉北区上富野)に転居していた。]
大いなる春の月あり山の肩
春曉の大火事ありしかの煙
春寒の樹影遠ざけ庭歩み
庭石にかゞめば木影春寒み
新らしき春の袷に襟かけん
新調の久留米は着よし春の襟
春の襟かへて着そめし久留米かな
花も實もありてうるはし春袷
春の風邪癒えて外出も快く
戀猫を一歩も入れぬ夜の襖
冬去りて春が来るてふ木肌の香
土濡れて久女の庭に芽ぐむもの
[やぶちゃん注:本名を詠み込んで格調を維持出来るのは久女以外にはおるまい。]
故里の小庭の菫子に見せむ
ほろ苦き戀の味なり蕗の薹
蕗の薹摘み來し汝と爭はず
移植して白たんぽぽはかく殖えぬ
空襲の灯を消しおくれ花の寺
近隣の花見て家事にいそしめる
掘りすてゝ沈丁花とも知らざりし
船客涼し朝潮の鳴る舳に立てば
蟬涼し汝の殼をぬぎしより
[やぶちゃん注:私の好きな一句。]
この頃は仇も守らず蟬涼し
羅の乙女は笑まし腋を剃る
[やぶちゃん注:私の好きな一句。]
壇浦見渡す日覆まかせけり
日覆かげまぶしき潮の流れをり
おびき出す砂糖の蟻の黑だかり
[やぶちゃん注:私の好きな一句。]
植ゑかへし薔薇の新芽のしほれたる
英彦より採り來し小百合莟むなり
冷水をしたたか浴びせ躑躅活け
實梅もぐ最も高き枝にのり
目につきし毛蟲援けずころしやる
鍬入れて豆蒔く土をほぐすなり
千萬の寶にたぐひ初トマト
處女の頰のにほふが如し熟れトマト
母美しトマトつくりに面瘦せず
朝に灌ぎ夕べに肥し花トマト
降り足りし雨に育ちぬ花トマト
新鮮なトマト喰ふなり慾もあり
この雨に豆種もみな擡頭す
[やぶちゃん注:「擡頭」老婆心乍ら、「たいとう」で台頭に同じい。頭を持ち上げて伸びること。]
朝な朝な摘む夏ぐみは鈴成に
[やぶちゃん注:底本では「朝な朝な」の後半は踊り字「〱」。]
靑芒こゝに歩みを返しつゝ
たてとほす男嫌ひの單帶
[やぶちゃん注:私の好きな一句。]
張りとほす女の意地や藍ゆかた
秋耕の老爺に子らは出で征ける
鳥渡る雲の笹べり金色に
菱實る遠賀にも行かずこの頃は
[やぶちゃん注:前にも注したが、「遠賀」は古称で「おが」と読んでいよう。]
菊の句も詠まずこの頃健かに
雲間より降り注ぐ日は菊畠に
龍胆も鯨も摑むわが双手
[やぶちゃん注:私の好きな一句。]
解けそめてますほは風にせ高けれ
[やぶちゃん注:「ますほ」真赭(まそお)。赤い色の意で、ここは「ますほの薄(すすき)」の意。]
蔓ひけばこぼるゝ珠や冬苺