『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源賴朝墓
●源賴朝墓
法華堂の後(うしろ)の山の上に在り。墓石の高さ五尺餘。圍むに石垣を以てす。東鑑脱漏に法華堂西の方岳上に右幕下の御廟を安すとあり。賴朝は正治元年正月十三日薨す。壽五十三歳。沒號は武皇嘯原大禪門と云ふ。
[やぶちゃん注:前に注した通り、これは薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで)が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた疑墓である。諸本はそれ以前からの墳墓を「整備」したなどと称しているが、私はこれは一種のでっち上げに近い部類の仕儀と考えている。
「五尺」一・一五メートル。
「東鑑脱漏に法華堂西の方岳上に右幕下の御廟を安すとあり」正規の「吾妻鏡」から抜けている部分を補うとされる伝島津本にある「吾妻鏡脱漏」の嘉禄元(一二二五)年十月二十日の条には以下のようにある。新御所(新幕府政庁)選定会議の記録で、なかなか面白い。
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〇原文
大廿日丁未。晴。相州。武州等令參會給。御所地事。重有御沙汰。可决卜筮之由云々。仍被召國道朝臣以下七人陰陽師。以法華堂下地爲初一。以若宮大路。爲第二。而兩所之間。可被用何地哉之由。可占申之旨。被仰含之處。國道朝臣申云。可被引移御所於他方之由。當道勘申畢。然於一二御占者。若可付第一之趣。有占文者。申狀既似有兩樣歟。難及一二之御占云々。珍譽法眼申云。法華堂前御地。不可然之處也。西方有岳。其上安右幕下御廟。其親墓高而居其下。子孫無之之由見本文。幕下御子孫不御坐。忽令符合歟。若宮大路者。可謂四神相應勝地也。西者大道南行。東有河。北有鶴岳。南湛海水。可准池沼云々。依之此地可被用之旨。治定畢。但東西之事者。被聞食御占。西方最可爲吉之由。面々申之。信賢一人不同申之。東西共不吉也云々。
○やぶちゃんの書き下し文(一部に《 》で注を挿入した)
廿日丁未(ひのとひつじ)。晴る。相州《時房》、武州《泰時》等、參會せしめ給ふ。御所の地の事、重ねて御沙汰有り。卜筮(ぼくぜい)で决すべきの由と云々。
仍つて國道朝臣以下七人の陰陽師を召され、法華堂の下の地を以つて初一(しよいつ)と爲(な)し、若宮大路を以つて、第二と爲し、而うして兩所の間、何れの地を用ゐらるべきやの由、占ひ申すべきの旨、仰せ含めらるるの處、國道朝臣、申して云はく、
「御所を他方に引き移さるるべきの由、當道が勘(かん)《陰陽道に則った勘案》申し畢んぬ。然ども、一、二の御占に於いては、若し第一に付くべきの趣き、占文有らば、申し狀、既に兩樣有るに似たるか。一、二の御占に及び難し。」
と云々。
珍譽法眼、申して云はく、
「法華堂の前の御地は、然るべからざるの處なり。西方に岳(をか)有り。其の上、右幕下の御廟(ごべう)を安んず。其の親の墓、高くして其の下に居るは、子孫、之れ無き由、本文(ほんもん)《易学の書》に見ゆ。幕下の御子孫は御坐(おはしまさ)ざるは、忽ち符合せしむるか。若宮大路は、四神相應の勝地と謂ひつべし。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛へ、池沼に准ずべし。」
と云々。
之に依つて此の地を用ゐらるべきの旨、治定(ぢじやう)し畢んぬ。但し、東西の事は、御占に聞こし食(め)さる。西方、最も吉たるべきの由、面々に之れを申す。信賢一人、之れに同(どう)じ申さず、
「東西共に不吉なり。」
と云々。
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・「御所を他方に引き移さるるべきの由、當道が勘(かん)申し畢んぬ。然ども、一、二の御占に於いては、若し第一に付くべきの趣き、占文有らば、申し狀、既に兩樣有るに似たるか。一、二の御占に及び難し。」――御所を他へ移すのがよいと陰陽道に則った占卜により勘案致いて申し上げております。然ところが、この一と二の御占卜の地に於いては、若し更に占って現在ある第一の地がよいという結果が出たとしたら、これは先の移転すべきと申し上げた占いと相い反することとなり、結果として二様の占卜が出ることになることになりはしませぬか? それでは逆に判断に迷うこととなりましょう。されば、この一、二の御占卜についてさらに占うということはし難きことで御座る。――と苦言を呈しているのである。移転を支持した最初の占いと相い矛盾する占いが出る可能性を含む占いというのは最早、占いではない、という謂いは何か非常に分かり易く、プラグマティクで私は好きだ。ここには占いを絶対普遍視しない、この陰陽師国道の鋭い現実主義的認識が表出していて私は好きなのである。
「正治元年」西暦一一九三年。ご存知とは思うが、「吾妻鏡」には肝心の頼朝死去の部分が怪しいことに脱落しているのである。
「武皇嘯原大禪門」は「ぶこうしょうげんだいぜんもん」と読む。「武(いく)さの皇(きみ)、原野にて嘯(うそぶ)けり」という意である。]