甲子夜話卷之一 9 神祖、田舍寺に干菜山十連寺の號を賜はる事
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神祖、武州川越邊御放鷹の時、小庵に立寄せ給ふ。住僧出で迎へ奉る。野僧の質朴や御意に叶けん、御話の御相手となりて、頗御喜色なり。稍ありて僧申上るは、庵貧くして、もとより名もなし。冀は寺號山號を賜りたし、と言上しければ、神祖其邊を見渡し玉ふに、簷に干葉を繩に貫て、その數十掛匿たるを熟視し玉ひ、干菜(ホシナ)山十連寺と稱すべし、との仰にて、寺領の御朱印をさへ賜しとぞ。因て今に此寺相續して、其號を崇稱す。眞にかしこくもその御氣象の快活なること欽仰し奉るべし。
■やぶちゃんの呟き
「放鷹」は「はうよう(ほうよう)」と読み、鷹狩に同じい。
「干菜山十連寺」現在の埼玉県上尾(あげお)市本町にある浄土宗干菜山光明院十連寺(ほしなさんこうみょういんじゅうれんじ)。上尾市公式サイト内の「上尾の寺社 6 十連寺(今泉)」によれば、これは慶長一八(一六一三)年十月のこととする。『将軍職はすでに秀忠に譲っているとはいえ、大御所(おおごしょ)として時の最高権力者の地位にある家康の命名であり、大変珍しいということになる。それにしても、仏教言葉からの寺名でなく、「干菜山」とは軽妙で微笑ましく、すこぶる機知に富んだ大御所であったということになろうか』と記す(「新編武蔵風土記稿」に基づく)。また、同寺には『家康の書簡が残されており、内容はミカンを贈られたことに対する礼状である。あて先が不明で、内容も把握しにくい点もあるが、ここでも食べ物の名が出てくるとは、不思議な縁ということになろうか』と記す。本尊は阿弥陀如来像でk両脇侍像とともに『江戸時代前期の作で、寄せ木造』とあり、造立には本由縁との関連もありそうである。さらに、『本堂の左手奥の墓所には、市指定の文化財になっている柴田氏父子の墓がある。父の名は柴田七九郎(しちくろう)康忠』で、彼は家康の関東入国後に埼玉(さきたま)郡で五千石を給された家康の有力家臣であった。康忠は文禄三(一五九四)年に没して樋ノ口村(現久喜市)に葬られたが、後に子の康長によってここへ移されたとあり、その後、曲折の後に康長が家を継ぎ、寛永元(一六二四)年には武蔵国足立郡(現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区にかけて存在)の大谷領三千石の地を与えられ、向山(むこうやま:現在の上尾市向山。向山神明社境内付近。)に陣屋を構えたとある。康長は寛永一三(一六三六)年に没するが、『十連寺の幕府朱印状はその子康久(やすひさ)の時代に与えられたものである。康久も同寺に土地を寄進している』(「上尾市史第三巻)とある。