五月の歌 萩原朔太郎(短歌三首)
[やぶちゃん注:以下は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「五月の歌 拾遺」歌群。但し、「拾遺」(原本は「捨遺」であるが、ここは誤字と断じて校訂本文通り「拾遺」とした)とはあるものの、これに先行する「五月の歌」本体は少なくとも「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」にはなく、現存しない模様である(今まで私が電子化した短歌群にもそれに相当する歌群は見当たらない)。クレジットはないが、直前が前に掲げた「林檎の核」歌群でこれが大正二(一九一三)年七月十三日のクレジット、次の文語自由詩「月見草」が同年五月のクレジットである(本創作ノートのクレジット時系列は必ずしも順番になっていない)。]
五月の歌
拾遺
なたねなのともし油はふすふすと
衾(ふすま)の影にきたり泣くなり
かくありと知りなば憂しや燃(も)えながら
我は思ひに消えぬべらなり
(たはむれてS子に送る)
[やぶちゃん注:「S子」不詳。]
沒義道(もぎだう)の國の法規(おきて)を憤ほり
いたく言いたる君にやあらぬ
(坂梨君に)
[やぶちゃん注:「坂梨君」は朔太郎の友人坂梨春水(さかなしはるみ (明治二二(一八八九)年~昭和五二(一九七七)年 生没年は国立国会図書館の資料に拠る)。『明星』に投稿する歌人で前橋の文芸誌『おち栗』(明治四二(一九〇八)年五月創刊)の中心人物(同誌創刊号には朔太郎も新体詩「宿醉」を寄稿している)で、同じ前橋中学出身であった(朔太郎の方が三歳年上)。明治四十四年六月に起った大逆事件(翌年一月死刑判決(直後に十二名処刑、特赦無期刑は十二名)の余波(坂根俊英氏の「萩原朔太郎論――啄木の影響と社会性」によれば、坂梨がこれ以前、大阪を流浪していた頃に友人に送った長編論文の筆禍による不敬罪と推定されており、坂根氏は本短歌を掲げて「沒義道の國の法規を憤ほりいたく言いたる」というのはこの論文のことを指しているらしいと述べておられる)で、同六月に逮捕され、同年十一月二十二日に前橋地方裁判所で懲役四年の判決を受けて前橋監獄に投獄された(この判決日付はサイト「アナキズム」の『大逆事件関連家宅捜索による不敬事件の「摘発」』に拠った)。但し、坂梨は大正元・明治四五(一九一二)年の大赦で出獄しており、本短歌(大正二年頃創作推定)は出獄後の彼との親しい交際の中でのオードであるので注意されたい。また、私は萩原朔太郎を今時のヘイト・スピーチに酔うている如き凡庸で御目出度い国粋主義者どもと同類であったとは思っていない。少なくとも彼の若き日の怒りや憤りは確かな正しい魂の視座に支えられてあったと信じて疑わない人間である。]
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