耳囊 卷之九 眞忠の論尤の事
眞忠の論尤の事
或人云、盛長日記といふ書あり、世に希成(まれなる)由。其内に有ける由、賴朝沈淪して蛭が小島にありしころ、常に昵近(ぢつきん)して忠義を表せしは安達藤九郞盛長、菊地源吾盛澄兩人なりしが、或時賴朝は盛澄をして櫛けづらせたりける。側(そば)に盛長もありしが、盛長申(まうし)けるは、平家の暴惡日にまし增長(ざうちやう)なせば、最早義兵をあげ給ふ時節なり、平家を亡(ほろぼ)し君(きみ)天下を掌握あらば、我には何を恩賞に給はるべしと申ければ、賴朝笑つて、我等が今の身分、いかで義兵を擧(あげ)ん事かたかるべし、況や天下に旗を立(たて)ん事覺束(おぼつか)なし、萬一汝が申(まうす)所相違なき事にいたらば、望(のぞむ)所は恩賞すべしと笑ひ給ふを、菊地は櫛を持(もち)ながら側を向ひて舌を出しけるとや。さて無程(ほどなく)賴朝が惣追捕使(さうついぶし)となり、第一番に盛澄、第二番に盛長へ、多年の功を賞し領知を給ふに、盛長には望(のぞみ)し所に猶(なほ)加壹倍(くわいちばい)して給ふ。盛澄へは盛長よりも多く所領を給ひければ、盛長不悅(よろこばず)して曰(いはく)、盛澄と我は、主人の艱難の扈從(こじふ)して同じく功をなせり。しかるに盛澄を先にし給ふさへ恨(うらめ)しきに、賞し給ふ領地も又少(すくな)しと申(まうし)ければ、賴朝のいわく、兩人の忠義はいづれ不劣(おとらず)といへども、斯々(かくかく)の時、盛長は所領の約をなせし、しかれば所領を得んと、欲を以(もつて)なす忠義なり。盛澄は是に反して舌を出せしは、賴朝天下を掌握せんは事可笑(ことをかしき)しき事と思へり、然れば賴所(よりどころ)なけれ共、主人なれば忠を表すと云(いふ)所、眞忠(しんちう)ともいふべし、是に依(よつ)て一番に賞せると宣ふ事、實(げに)も尤なる事と、盛長自記といふ書に顯せりとぞ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。古え鎌倉の武辺物であるが、如何にも噓臭い。
・「盛長日記」盛長私記。五十一巻に及ぶ、頼朝側近であった安達盛長著とされる治承より嘉禄年間にまで及ぶ膨大な日録であるが、偽書。
・「蛭が小島」現在の伊豆の国市四日町(旧田方郡韮山町)とされるが、実は頼朝の配流地は漠然とした伊豆国であって、「蛭ヶ島」という呼称はずっと後世の記述に基づくものであり、確定的な比定地では全くない。
・「安達藤九郎盛長」(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)は『源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる』。治承四(一一八〇)年八月の『頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると』、元暦元(一一八四)年の頃から上野国の奉行人となる。文治五(一一八九)年の『奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている』。正治元(一一九九)年一月に頼朝が亡くなると『出家して蓮西と名乗』った。同年四月には二代将軍源頼家の『宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護となっている。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では』追放強硬派の一人となった。享年六十六。因みに、彼については後世のトンデモ説の一つに頼朝誤殺説がある。頼朝は愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする「誤認殺傷説」で、頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとしたのを、警固の安達盛長によって誤って斬られたという説である。これは一見、頼朝が手に負えない女好きであった事実と照らし合わせると、情けなくも不本意にして、事実なら隠蔽必須な如何にもゴシップ好きが飛びつきそうな説であるが、その如何にもな狂言染みた「真相はこれだ!」的筋立て(実際に真山青果の戯曲「頼朝の死」(初演は「傀儡船(くぐつぶね)」)などはそれ。但し、そこでは誤殺者は畠山重保になっている)で、当時六十四になっていた頼朝流人時代からの直参が「警固―誤認―殺傷完遂」というのは、これ、残念ながら如何にも無理がある。
・「菊地源吾盛澄」不詳。「吾妻鏡」治承四年八月二十日石橋山合戦の直前の四十六名の扈従一覧にはこの名はない。安達と並び得、しかも頼朝の信頼が非常に厚かった人物とすれば佐々木三郎盛綱が名の「盛」では一字一致する。ただ、この話、本当に「盛長私記」の中にあるのだろうか? 少し見て見たが見当たらない。今後、探索を続行する。こんな如何にもな架空人物を書いてあるとしたら、「盛長私記」の偽書性は恐ろしくレベルが低いと言わざるを得ないことになる。
・「旗を立ん」文脈からは「いかで義兵を擧ん事かたかるべし」というのが軽い対象であるから、こちらは文法的にも重い対象でなくてはならず、単に旗揚げ、挙兵をするというのではなく、天下を完全に制圧・制覇・支配するという謂いである。
・「惣追捕使」頼朝が平家追討中に西国諸国に独自に配した警察・軍事的官職。追討完了後の文治元(一一八五)年十一月の「文治勅許」によって地頭職とともに、義経追捕を名目としてこれを全国的に設置する権限である日本国惣追捕使・日本国総地頭を朝廷から承認されている。因みに私は、これを以って実質的な鎌倉幕府の成立とする考え方に組するものである。
・「盛長自記」底本には右にママ注記有り。訳では「日記」で合わせた。
■やぶちゃん現代語訳
頼朝公の真実(まこと)の「忠」についての論義の尤もなる事
ある人が申すに、「盛長日記」という書の御座って、これ、世にも希れなる武辺物なる由にて、その中に記されてある話である、とのこと。……
……頼朝公、流人として落魄(おちぶ)れて蛭ヶ小島(ひるがこじま)にあられた頃のこと、常に昵近(じっきん)致いて忠義を尽くして御座ったは、安達藤九郎盛長と菊地源吾盛澄の両人で御座った。
ある時、頼朝公、盛澄に御髪(みぐし)を梳(くしけず)らせなさっておられた。
側には盛長も御座ったが、盛長、
「――平家の暴悪、これ日増しに増長致いたれば! ここは最早、殿が義兵を挙げ遊ばさるる時節と相い成って御座る! 如何(いかん)?!――さても平家を亡ぼし、君(きみ)が天下を掌握なされたとならば……さても、我らには何を恩賞として下さいまする?……」
と、ぶち上げるように申し上げた。
すると頼朝公は、
「……我等が今の身分、どうして……ただ義兵なんどを挙げんことさえも……とてものことに……し難(かた)きことじゃ。……況や、天下に号令致すような、覇者たらんとすることなど……全く以って、覚束なきこと。……こま、しかし、万が一、万が一じゃが……汝が申すに相違なき立場を得たとならば……そうさ、な、望む所のものは、これ、必ず恩賞として与えようぞ……」
と、お笑いになりながら仰せられた。
……それを、安達
――合点!
と、肯き返す。
が、安達が垣間見ると、菊地は
……これ、櫛を持ったまま
……横を向いたかと思うと
……頼朝公に見えぬよう
――ぺろっ
と、舌を出しておったとか…………
さて、ほどのぅ、頼朝公は惣追捕使(そうついぶし)となられた。
さればまず、第一番目に盛澄へ、第二番目に盛長へ、多年の功を賞し、領地安堵遊ばされたが、その折り、盛長には望んだる所に、確かに、なお加倍して賜われた。
ところが、それより先、盛長の目の前にて、盛澄へは、盛長よりも明らかに多くの所領が賜われて御座ったによって、盛長は悦ぶまいか、満面を曇らせ、
「……盛澄と我らとは、御主人様の艱難辛苦に扈従致いて参り、全く以って同じく功を成して御座ったこと、これ明白にて御座る! 然るに、この度、かく盛澄を先に賞せられしことさえ恨めしきことなるに! 加えて、我らに賞し賜うたる領地もこれまた、盛澄より少なきは、これ、如何(いかん)?!……」
と、申し上げたところ、頼朝公は、また、軽くお笑いになられて、
「……両人の忠義は、これ孰れも劣ざるものじゃ。……とは……申せ……そうれ、先般……ほれ、あれじゃ……あの時のことじゃ……盛長へは、所領の約束を確かに致いた。……然れば……あの時のそなたは……これ……
――所領を得んとの、欲を以ってなす――忠義――
であったの。
……盛澄はと申せば……これに反し……舌を出して御座ったを、覚えておろうが。
――我らは、ちゃんとそれを見知っておったぞ――
あれは……
――この頼朝が天下を掌握せんなんどと申すことは――これ――ちゃんちゃら可笑しい事――
と思うておったに相違ない。……ということは、じゃ……
盛澄は――
自身の生涯の頼りどころと致すには、この頼朝――
全く以って甲斐なき男なれども――
主人なればこそという一点に於いてのみ――
これ、忠義を表わす他はあるまい――
と心に定めたということ、じゃ。……
……どうじゃ、これぞ
――真実(まこと)の忠――
とも言うべきものであろうが。
……さればこそ、これに依って、我ら、一番に盛澄を賞したのじゃ。……」
と、宣われたと申す。
このことを、盛長自身、
『實(げ)にも尤もなる事。』
と、「盛長日記」と申すその書に、確かに書き記しておる、とのことで御座った。
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