『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 筋違橋/畠山重忠屋敷跡/鳥合原/大倉稲荷社
●筋違橋
雪の下より大倉村に出る道路に架する橋を筋違橋(すじかへはし)と云ふ、鎌倉十橋の内なり。
●畠山重忠屋敷跡
筋違橋の西北畠山重忠が屋敷跡と稱す。東鑑に正治元年五月七日醫師時長昨日京都よら參著す、今日掃部頭か龜ヶ谷の家より畠山次郎重忠が南御門の宅に移住す、是(これ)近々(きんきん)に候せしめ姫君の御病惱(ごびやうのう)を療治し奉らむが爲なりとあり。
[やぶちゃん注:「姫君」頼朝の次女三幡(さんまん 文治二(一一八六)年~正治元(一一九九)年)三幡は字(あざな)で通称は乙姫。大姫・頼家の妹で実朝の姉。参照したウィキの「三幡」によれば、『頼朝は長女大姫を後鳥羽天皇の妃にするべく入内工作を進めていたが、大姫が死去』(思い人木曽義高の斬殺(当時大姫六歳、義高十一歳)によって重度の精神障害をきたしていた大姫は建久八(一一九七)年七月十四日に没している。享年二十)『するとこの三幡を次なる候補に擬するようになる。三幡は女御の称を与えられ、正式の入内を待つばかりとなり、頼朝は三幡を伴って上洛し朝廷の政治についての意見を具申する予定であった』。ところが(建久一〇(一一九九)年三月五日の条によれば)、三幡乙姫はこの以前から高熱を出し、この日に危篤状態に陥ってしまう。母政子は諸社諸寺に祈願誦経をさせるが、日を追って憔悴するため、十二日になって、『療養のため名医の誉れ高い京の針博士・丹波時長を招こうとするが、しきりに固辞したため院に奏上するよう在京の御家人に使いが出された』。五月七日になって、京より時長が到着、『度々固辞したが、院宣によって関東へ下ってきた』のであった。八日、時長は『朱砂丸を三幡に献上』、砂金二十両の禄を受け取っている。十三日、『御家人達が日別に時長を饗応する事が決められる』。二十九日には乙姫は僅かに食事を摂り、周囲を喜ばせたものの、六月十四日にはぐったりとして前々日の十二日から目の上が腫れる異様な様態となり、『時長は驚き、今においては望みがなく、人力の及ぶところではないと言』うと、二十六日には帰洛してしまう。結局、乙姫はこの六月三十日に逝去した。享年十四。二十五日、『京より駆け戻った乳母父の中原親能は出家し、遺体は親能の屋敷がある鎌倉亀谷堂の傍らに葬られた』(因みにこの間に父頼朝が急死(建久一〇(一一九九)年一月十三日。享年五十三(満五十一歳)している)。]
●鳥合原
八幡宮東鳥居外の畠をいふ。相撲入道崇鑑鷄を合(あは)せ犬を挑合せし地なり故に名けしと云傳ふ。按するに鎌倉志に建永二年三月三日實朝北の壺にて鷄鬪會(けいたうくわい)ありし事東鑑に見ゆ。蓋し此事を誤り傳えしならん。又一説に烏合は鳥居合と云事にて。流鏑馬馬塲の東西に鳥居あり故に名けしなりと云ふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」に、
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○鳥合原 鳥合原(とりあはせはら)は、八幡宮の東の鳥居(とりゐ)の外の畠(はたけ)也。相ひ傳ふ、昔し相模入道宗鑑(そうかん)、雞(にはとり)を合せ、犬を挑合(いどみあは)せし地なり。故に名くと。【東鑑】に、建永二年三月三日。實朝將軍、北の御壺(をんつぼ)に於て雞鬪會(にはとりあはせ)有とあり。此事を誤(あやまり)て云傳へたるか。或人の曰く、あはせと云事は、鳥居合(とりゐあはせ)と云事也。流鏑馬場(やふさめばば)の東西に鳥居あり。故に名となり。
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とあるのを丸引きしている。
「相撲入道崇鑑」北条高時の法名。彼は正中三(一三二六)年に病のため、二十四歳で執権職を辞して出家している。因みに(以下、ウィキの「北条高時」に拠る)、この後、後継を巡って、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こるが、同年三月には金沢貞顕が執権に就任するがすぐに辞任、四月に赤橋守時が就任することで収拾した。『この騒動の背景には太守高時の庶子である邦時を推す長崎氏に対し、邦時は側室の子であり、高時正室の実家である安達氏の方は正嫡子が生まれるまで親族で高時実弟の泰家を推す安達氏との確執があるとされる』。元弘元(一三三一)年には、『高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起』きている。同年八月、『後醍醐天皇が再び倒幕を企てて笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると、軍を派遣して鎮圧させ』、翌年三月には、『また後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑』『皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立て』た。しかし、元弘三(一三三三)年に『後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻略。関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。新田軍が鎌倉へ侵攻すると、高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃』した。享年三十一。
「建永二年」西暦一二〇七年。]
●大藏稻荷社
大藏町(おほくらまち)の鎭神とす。岩窟中(いわやなか)に社を建神體は秘して函中(かんちう)に納む。當社古は供僧あり。慶舜、覺胤、貞雅、貞譽等次第に讓與せし事鶴岡供僧我覺院文書に見えたり。廢せし年代は傳はらす。
[やぶちゃん注:この観光ガイドにして、この現在は所在不明のこれを載せるのは極めて特異点と言える。白井永二編「鎌倉事典」の貫達人氏の記載によれば、比定推定地は『まず第一は樋口子爵・小川字慈海氏の説で大倉の黒川材木店』(現在の所在地は神奈川県鎌倉市雪ノ下三丁目)『稲荷社が大倉稲荷ではないかという説と、第二には』浄妙寺の「寺伝略記」等にある浄妙寺『境内の稲荷が大倉稲荷であるとする説の二説であるが、どちらも断定はむずかしい。沿革・廃年も未詳』という、今は既に訪ねようにも尋ねられない幻の稲荷だからである。貫氏と川副胤人氏の共著「鎌倉廃寺事典」の「大倉稲荷」によれば、現在、小町(屏風山北中腹)にある宝戒寺持ちの稲荷社も同定候補で、これは「相模国風土記稿」に『「岩窟中ニ社ヲ建ツ」とみえるのものらしく、もと黒川材木店付近のものと思われる(杉本寺の小川慈海師の談によると、現在の位置は最近の移建で、今でも、これを大倉稲荷といっている、ということである。昭和三十二年頃の談話)』とある。本誌の筆者はどうも「相模国風土記稿」をここでは参照したものらしい(「相模国風土記稿」の当該部分は未だ探し得ず)。]

