甲子夜話卷之一 11 盗日本左衞門の事
1-11 盜日本左衞門の事
濱島庄兵衞と云しは、享保の頃世に日本左衞門と呼し大盜なり。此人盜せし初念は、不義にして富る者の財物は、盜取ども咎なき理なれば、苦からずと心掟して、その人その家を量りて盜人しとぞ。次第に場數を歷るまゝ、盜の仕方十分手に入、いかなる所へも入れぬことはなきほどになりたり。夫より慾心深くなり、後は義不義の見分をする暇もなく、都合さへよければ、何れの所と定めず、盜に入りけるが、一人も人をあやめたること無りしとなり。年月を經て、官より嚴なる御尋者となりける。一日、庄兵衞京都の町奉行所に、麻上下を着し兩刀を帶して、御尋者の日本左衞門にて候と、玄關まで出ければ、有合ふ同心與力の筆立騷て、門を鎖よ人を集よと、ひしめきければ、庄兵衞云ようは、みづから名のり訴出候者、逃も隱れもいたさず候。御心靜にめし囚らるべしと云。夫より繩かけ吟味に及ぶに、其次第を逐一白狀して聊かも包み匿すことなく、これまで忍入る所凡幾十軒、金銀にて得る所幾千、雜物にて得る所若干と云まで、詳に訴けり。その後如何なる心より自訴せしやと問に、答て云、某は天の網に罹りたれば、迚も遁れられぬ身なりと存、訴出候と申す。さらば其天の網とは如何なることやと問に、御尋者も品々候へども、親殺し主殺しの外、人相書にて御尋のことは候はず。しかるに近頃は某こそ大盜よとて、處々に我が人相書を出て御索あるを、辻々にて見侯。これを天の網と心得申候。もはや逃れがたきこと思ひ定め候へば、人に見出されんよりは、自訴せんと思定めて此如くに候と、申せしとぞ。盜といへども日本左衞門と呼ばれしほどの志はありき。
■やぶちゃんの呟き
・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衛門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。「耳嚢 巻之七 鱣魚は眼氣の良藥なる事」には異様に目が良かったことが本人の談話とともに載り、また「耳嚢 巻之一 武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。ご笑覧あれ。
「御索あるを」「おさがしあるを」と読む。
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