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« 明恵上人夢記 41 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第十一章 戀愛(1) 巻頭言 »

2014/10/05

明恵上人夢記 42

42

 佛眼法(ぶつげんはふ)、自行の爲の上に、又女院(にようゐん)の爲に奉る御祈禱なりと云々。寶樓閣供〔宗光幷に親康等の爲に祈禱すと云々。〕

 都部陀羅尼目(とぶだらにもく)を付して取る日、建永元年十一月廿七日。

 建永元年十一月、院より、神護寺の内※尾(とがのを)の別所を賜はる。名づけて十無盡院(じふむじんゐん)と曰ふ。[やぶちゃん字注:「※」=「楮」+(前の「楮」全体の右側に更につくりとして部首の「おおざと」)。]

 同廿七日、彼の所に移住す。但し、同廿日より、法性寺禪定殿下の仰せに依りて、彼の御殿の中に於いて、一七(いちしち)ケ日、寶樓閣供を勸修(ごんしゆ)せしむ。同廿六日、結願(けちぐわん)すと云々。

 同廿七日、山に登りて、此の院に住む。同十二月一日より、行法、之を始む。都部陀羅尼目を付して取る日と云々。

 寶樓閣法二時、朝夕。佛眼法二時、後夜(ごや)。

 但し、始むる事は共に初夜(そや)に之を始む。此の事は自行なるが故に、強ひて吉凶を簡(えら)ばず。前々より行じ來れるが故に。

一、同四日の夜、夢に云はく、成辨、法性寺殿下に參る。自ら成辨を呼ばしめ給ふ。其の御詞に云はく、「阿闍梨御房、此に坐せしめ給へ。」以ての外に敬重(きやうぢう)せしめ給ふ。召しに應じて參る。御座之(の)如くなる處へ請じ、坐せしめ給ふ。入道殿幷に女院と思しき人、又法印の御房と思しき人、居幷びておはしますと云々。「法門の義を申せ」と仰せらるれば、將に之を□申さむとすと云々。法印の御房、成辨之(の)行法の御佛供すくなきを下知しに、暫く立たしめ給ふと思ゆ。又、殿下の姫君の御前と思しき人二人と共に、成辨以ての外に親馴(しんじゆん)之(の)儀を成す。横さまに之を懷き奉りて、諸共(もろとも)に車に乘りて行くと云々。但し、車に乘る事は、成辨と又姫公(ひめぎみ)と二人也。さて、五節(ごせち)の棚の樣なる物に油物(あぶらもの)等の物等、雜(くさぐさ)の食物(じきもち)を置くを、御前に取り寄せて、「此(これ)に水をかけて御房にまゐらせよ」と仰せらると云々。

[やぶちゃん注:底本では、この前に「41夢」までとは異なる別資料であることを示すマークが入っており、「42夢」から「49夢」までが同一資料となる(注には原典資料の書誌情報が載らない)。
 
 記述の前半分が実際の日録となっており、明恵が後鳥羽院から高山寺を与えられて初めて入山した、エポック・メイキングな、その最初記の重要な夢記述である。当時、明恵満三十三歳であった。夢は連続しつつも、三つのパートに分かれると私には読めるので、行空きを当該判断箇所に挿入してある。

「佛眼法」底本注に、『仏眼尊を本尊に息災を祈る修法』とある。仏眼尊(ぶつげんそん)とは密教で胎蔵界曼荼羅遍智院の仏尊で、仏の智慧を生じる無限の功徳を備えたその眼相を人格化したものとされる。大日如来などの変現とされ、菩薩行で結跏趺坐の像に表す。仏智の象徴像であり、一切の仏を生むものとされることから「仏眼仏母」とも呼ばれる。

「女院」底本注に、『九条兼実女で、後鳥羽天皇の中宮であった任子(宜秋門院)をさすか。正治二年(一二〇〇)六月二十八日院号を蒙り、建暦二年(一二一二)正月十三日にこれを辞している。暦仁元年(一二三八)年十二月二十八日没。六十五歳。ただし、後高倉院の妃北白河院、その女乾門院、後白河院の皇女宜陽門院などの説』もあるとする。宜秋門院とすれば、この記載当時は三十三歳。確定出来ないので訳では名は出さなかった。

「寶樓閣供」宝楼閣経法と同じであろう。既注であるが再掲する。諸尊が住む楼閣を讃え、その陀羅尼の功徳を説いた唐の不空訳になる「宝楼閣経」(ほうろうかくきょう。正式には「大宝広博楼閣善住秘密陀羅尼経」という)三巻に拠って滅罪・息災・増益などを祈る修法をいう(中経出版「世界宗教用語大事典」に拠った)。底本既注に、『釈迦如来のいる楼閣を中央に描いた曼陀羅を掛けて行う』とある。

「宗光」明恵の伯父湯浅宗光。既注であるが再掲する。湯浅宗光(生没年不詳)は鎌倉前期の武士で宗重(紀伊国湯浅城(現在の和歌山県有田郡湯浅町青木)を領した平清盛配下の有力武将。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるも源頼朝に降伏して文治二(一一八六)年に所領を安堵される。以後、順調に所領を増やして紀の川流域まで勢力を広げ、後に湯浅党と呼ばれた)の七男(養子とも)。七郎左衛門尉と称した。後に出家して浄心と号した。当初は父と共に平氏に仕えたが、やがて源氏に味方するようになり、鎌倉幕府御家人となった。父から紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を譲られて保田氏を名乗るようになる。嫡流でなかったにも拘わらず、湯浅一族の中での最有力者となり、保田氏が湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。甥に当たる明恵の後援者でもあった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。記述から当時、存命中と考えてよい。

「親康」底本注は藤原親康とし、「歌集」に出る『佐渡前司藤原親康』とする。その注によれば、生没年未詳ながら、『九条家に出入し藤原定家とも交渉があった』人物とある。同じく記述から当時、存命中。

「都部陀羅尼目」大正蔵第十八巻所収。全一卷。唐代の不空訳の漢訳仏典。

「建永元年」西暦一二〇六年。「十一月廿七日」因みに、この前月十月二十日に後に暗殺者となる公暁が実朝の猶子となっている(実朝十五、公暁六歳)。

「院」後鳥羽上皇。ウィキの「後鳥羽天皇」によれば、この頃、朝廷にあっては名実ともに治天の君として君臨、公事の再興や故実整備・廷臣統制などに積極的に取り組んでいた。京風を貴んで和歌を好む実朝を巧みに取り込むことで幕府内部への影響力の拡大をも図って、加えて『幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍」の構想を打ち出してきたこと』などから、当時は幕府との関係を含めて一時の安定期にあったと言ってもよい。当時二十六歳。

「法性寺禪定殿下」九条(藤原)兼実(久安五(一一四九)年~承元元(一二〇七)年)。摂関家藤原忠通六男。邸宅法性寺殿を譲られ後法性寺殿・月輪殿と称された。父の後継者の意識強く、姉の皇嘉門院の庇護を得て、摂関を志し、仁安元(一一六六)年には右大臣となった治承三(一一七九)年の平清盛のクーデターにより後白河法皇が幽閉され、関白藤原基房が流されたことから摂関への期待を抱いたものの、甥の基通が清盛の後押しで関白となって不遇をかこった。後、八条院に接近し情勢を窺い、平氏の滅亡とともに、文治元(一一八五)年十二月に後白河院に朝廷政治の改革を要求してきた源頼朝が、兼実を内覧に推挙、翌年二月に念願の摂政となると、頼朝と連携して政治改革を進め、院政に堕ちていた朝廷政治の復興を図った。さらに娘任子の入内実現に向けて力を注ぎ、摂関政治の再来を構想、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛の際には、頼朝の後援をとりつけ、同三年の後白河法皇の死後には「殿下・鎌倉の将軍仰せ合はせつつ、世の御政はありけり」という政治を実現させた。頼朝を征夷大将軍に任じ、弟慈円を天台座主や天皇の護持僧となし、東寺・興福寺・東大寺の修造・造営を果たして、朝廷の公事・行事を再興して以後の朝廷の体制を整えた。しかし、その得意の絶頂も長くは続かず、頼朝が後継者問題で後白河法皇晩年の寵妃丹後局や政敵源通親と結んだことにより孤立、建久七(一一九六)年の政変によって失脚した。因みに彼は建仁二(一二〇二)年一月に法然を戒師として出家、円証と号し、法然の「選択本願念仏集」も兼実の求めに応じて書かれたもので、娘の玉日姫(たまひひめ)は法然の弟子綽空(後の親鸞)に嫁がせている。(最後の部分以外は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。当時は死の前年で五十七歳。

「後夜」六時の一つ。寅の刻(午前四時頃)。夜半過ぎから夜明け前の時間帯を指し、その暁の折りに行う勤行をも指す。

「初夜」六時の一つ。戌の刻(午後八時頃)。宵の口で、その時刻に行う勤行をも指す。

「同四日の夜」この「同」は一応、栂尾入山後の十二月四日にとっておく。以下の夢記述(時系列で順には並んでいないものの)は総て入山以後のものと推定出来、しかもこの「42」はその内容から、特に入山後の夢の中で明恵に鮮烈な印象を与え、さればこそこの入山の冒頭に配したと考えられるからである。

「入道殿」九条兼実。

「女院」前注に準ずるなら宜秋門院。

「法印の御房」底本注には九条兼実弟の『慈円か。慈円は無動寺法印、法性寺座主法印などと呼ばれていたこともある』とする。彼ならば、当時は五十一歳で、再任と三度目の天台座主(彼は都合、三度天台座主となっている)の狭間の時期であった。ここは慈円で採った。

「將に之を□申さむとす」「□」は底本の判読不能字。全くの直感乍ら、「直(ぢきに)」「審(つまびらかに)」辺りか。それで取り敢えず訳した。

「御佛供」後の夢記述からは仏前の供物のようにも見受けられるが、「法印」が少ないとして「下知」するというのは、明恵に付き従う供僧のことのようである。後者で訳した。

「……暫く立たしめ給ふと思ゆ。又、殿下の姫君の御前と思しき人二人と共に……」この部分、連続した夢記述のようになっているが、明らかに違ったシチュエーションで、本来は「……しめ給ふと思ゆと云々。又、殿下の姫君の御前と……」とあるべきところと判断して、訳ではリーダと改行を施した。

「殿下の姫君の御前」底本注は、『後京極良経』(九条兼実次男で建仁二(一二〇三)年十二月に土御門天皇の摂政となり、この二年前の建仁四(一二〇四)年には従一位太政大臣となっていたが、この八ヶ月前の元久三(一二〇六)年三月七日に享年三十八で頓死ししてしまっている)の『女立子か。立子は建久二年(一一九一)年誕生、承元四年(一二一〇)順徳天皇の女御、翌年中宮となって』仲恭天皇の生母となった。『貞応元年(一二二一)院号を蒙り、東一条院と号した。宝治元年(一二四七)一二月二十一日没。五十七歳』とあるから、当時は未だ十五歳であった。この若さにこの夢のシーン――明恵がこの姫を横抱きににして牛車に二人きりで乗るのである――というのは、すこぶる重要な意味を持つと考えてよい。但し、同定は確定ではないので、訳では名を出さずにおいた。

「五節」奈良時代以後に新嘗祭(天皇が新穀を天神地祇に供えて神人共食する祭儀)及び大嘗祭(天皇が即位後初めて行う新嘗祭)に行われた五節の舞を中心とした宮中行事。例年陰暦十一月の中の丑の日に「帳台の試み」、寅の日に「殿上の淵酔(えんずい)」、その当夜に「御前(ごぜん)の試み」、卯の日に「童御覧(わらわごらん)」、辰の日に「豊明(とよのあかり)」のそれおぞれの礼式に則った節会(せちえ)の儀が連日行われたが、後には大嘗祭の際だけに行われるようになった。

「油物」ウィキの「神饌」に、「唐菓子」という項があり、そこに『神饌には油で調製された御物も見受けられる』として、『油は古来より胡麻、榧、胡桃などから精製されたが、油でいためる・揚げるといった調理方法は唐から伝わったとされ、それらの食品は唐菓子と呼ばれた』。『これらの中で「餢飳(ぶと)」「糫餅(まがりもち)」「梅枝(ばいし)」と呼ばれるものがあ』り、『米を粉にした槮粉(しんこ)を丸めて団子にし、中央を指でつぶして成型したものはへその穴に見えることから「へそ団子」と呼ばれ、神戸の生田神社などで奉げられるが、これを餃子のような半円形に成型したものが餢飳、紐状にして「∞」のような形に成型したものが糫餅、棒状に成型したものが梅枝とそれぞれ呼ばれ』梅枝は本来は三本の枝に分岐した「Y」のような形に作られていた、とある。こういった油で揚げた菓子様のものを指しているか。

「此に水をかけて」供物の清めの儀式であろうか。河合隼雄氏は『二人の間に「水をさす」動き』ではないかという驚くべき分析を示しておられる(後述)。]

 

■やぶちゃん現代語訳

42

 常日頃から日々修している仏眼法(ぶつげんほう)は、これ、私自身の勤行の拘束たるに加え、また同時に、女院(にょういん)の御為(おんため)にもこれを捧げ奉るところの御祈禱としてし申し上げているということを、特にここに記しおく。

 また宝楼閣供(ほうろうかくぐ)についても同前にして、やはり同時に湯浅宗光殿並びに藤原親康殿らの御為にも祈禱し申し上げているということも、やはり併記しておく。……

 「都部陀羅尼目」を、己れに確かに誦し終えたる日は、これ、実に建永元年十一月二十七日のことであった。

 建永元年十一月、後鳥羽院より神護寺の内の栂尾(とがのお)の別所を賜わった。名づけて「十無尽院(じゅうむじんいん)」と号す。

 この同じき建永元年十一月二十七日に、かの地所に私は移住した。

 但し別に、同二十日より、法性寺禅定九条兼実殿下の仰せによって、殿下の御殿に赴きその殿中に於いて七日間、宝樓閣供を勧修(ごんしゅう)し、同二十六日には滞りなく結願(けちがん)をしている。……

 同十一月二十七日、栂尾の山に登って、この十無尽院に住まうこととなった。

 同建永元年十二月一日より、自らに課したるすべての行法は、これを始めた。改めて「都部陀羅尼目」を己れに確かに誦し終えたる日でもあった。……

 宝楼閣法は二つの刻限に修して、朝と夕、仏眼法も二つの刻限に修し、こちらは後夜(ごや)とする。

 但し、午後の部の始める時刻は孰れも、宵の口を修法の開始としている。これは本修法が基本的には己れ自身のためにする行法であるが故であり、さればこそ、式礼の如く強いて、修するに吉凶の時を占って撰ぶということをしていない。そもそも、これらは遙か以前より私が個人的に行なってきた修法であって、今まで一度たりとも不都合なることはなかったが故である。

 

一、栂尾に入山して一週間ほど経った同建永元年十一月四日の夜、見た夢。

 私は法性寺一条兼実殿下のところに参った。殿下直々に私にお声を掛けられたが、そのお言葉には、

「明恵阿闍梨御房、ここに坐(ま)されよ。」

とあって、以ての外のおもてなしを遊ばされるのであった。

 されば召しに応じてお傍に参上したが、すると、貴人の御座(ぎょざ)とも申すが相応しき座所へと手ずからお請(しょう)じになられ、私を座らせなさったのである。

 兼実入道殿並びに女院と思しい御仁、また、慈円法印の御房と思しい御仁が、居並んで私をお待ちになっておられた。……

 兼実入道殿が、

「法門の正しき義に就きて申せ。」

と仰せられたので、まさにその義に就き、直ちに審らかに述べんとした。……

 

 慈円法印の御房は、私が栂尾に於いて行法するに際しての御僧の数をお訊ねになられたが、私が答えると、

「それは、あまりにも少ないではないか。」

と御咎めになられ、

「神護寺の者に供僧をもっと増やすよう、下知致そう。」

と仰せられて、暫くしてお起ちになられたかのように記憶している。……

 

 その後のこと、殿下の姫君の御前と思しい御仁と私の二人の場面となった。

 私は、この若き姫君と――これ、以ての外に――その場で馴れ親しんでおるのである。

 そして遂には横ざまにこの姫を抱き申し上げ、そのまま一緒に、館の縁に着けられてある牛車へと乗り込み、何処(いずく)かへと行くのであった。……――但し、この牛車に乗る際には、お付きの女房などは一切おらず、私と、この姫君と二人きり――なのであった。

 さても暫くすると、牛車は宮中のような御殿に着いたのであるが、そこには五節(ごせち)の棚のようなものが据え置かれてあり、その上には油物(あぶらもの)などや、その他の御供物など、まことにいろいろな神饌(しんせん)が置かれてあった。

 姫君は、それらの一つをお手元に引き寄せなさると、

「……私……これに、水をかけて……御房さまに、差し上げるわ……」

と仰せられるのであった。……

 

[やぶちゃん補説:本夢の前の二パートは治天の君後鳥羽院からその信仰の正当性を確かに認可された明恵が、同時に既成の実務行政社会と旧平安仏教界も認むるに足るべき自己存在認識を持っていたことを示すものとしてかなり自然に読み解けるように思われる。問題は最後の「殿下の姫君の御前」とのかなり強烈な交歓の意味するところであろう。これがもし、後京極良経娘の立子十五歳であったとすると、河合隼雄氏も「明惠 夢に生きる」で指摘されているように、この夢に先立つ五ヶ月前の建永元(一二〇六)年六月十三日の厳粛なる修法の最中に見たとする白昼幻日の「37」夢に出た、

殊勝なる家有るを見る。御簾を持ち擧ぐるに、十五六歳許りの美女、□を懸け、白き服を着て、成辨を見ると云々。

という美女との連関性を無視出来ない。これは陳腐な修行を妨げる存在としての女犯(にょぼん)などとは全く逆の、明恵の仏法理解の核心部そのものに象徴的女性性に関わる何ものかがあることを如実に示していると言ってよい。

 以下、河合氏の本夢についての分析を示す。

   《引用開始》

 この夢における「入道殿下」を、奥田勲も久保田淳も共に九条兼実のことであろうと推察しているが、「女院」、「法印の御房」については意見が分かれ、「殿下の姫君の御前」については、奥田は兼実の娘には該当するものがないとしているが、久保田は、後京極良経女(むすめ)立子かと推察している。もしそうだとすると当時は十五歳で、前の夢の「十五六歳許りの美女」につながってくるのだが、ここではこの姫君が誰かということよりも、明恵が非常に親しくし、「横さまに之を懐(いだ)き奉りて、諸共(もろとも)に車に乗りて行く」ことになり、結局は二人だけで車に乗ることになる状態を重視したい。宗光の妻に明神が降霊したときも、横抱きにするところがあったが、その際は女性の方が明恵を抱いていたので、母―息子関係の心の動きの方に重点があった。しかし、今回は、明恵が女性を抱いていて、男性―女性の心性がはたらいている――と言っても、年齢差が大きいが――と思われる。二人で車に乗った後にどこかに行ったのだろうか。いろいろと御馳走を並べ、「此(これ)に水をかけて御房にまゐらせよ」と姫君が言った。夢のこのあたりは一寸解りにくいが、あるいは二人の間に「水をさす」動きなのかな、とも思われる。夢の中で男性と女性が素晴らしい結合を体験するのは、困難なことでもあるし、長い経過を必要とするのである。

 男性の夢に登場する女性像の意味については、次章に少し論じるが、いろいろな意味をもっている。男性と女性との「結合」によって新しい生命が生まれるので、女性像はしばしば、何らかの意味の結合の機能を代表していることがある。この夢における「姫君」は、高山寺にはいった明恵がこれまでよりは、上流社会の人々と「交わって」ゆかねばならない、そのために必要な機能を示しているにも思われる。

   《引用終了》

 河合氏の『二人の間に「水をさす」動き』というのはちょっと分かり難いのであるが、謂わば、ユングが遠く錬金術に求めたところの男女の結合に象徴される真の全き存在となるための精神的な結合に至るのは容易ではなく、特にその過程では女性性側からの禁忌や抑止が強く働くことを意味しているものと読んでよかろう。ここでも明恵は一種の「おあずけ」を食らっている、という意味で私は理解している。ともかくもこの河合氏の分析は実に面白い(但し、私は国語学的国文学的に、この河合氏が言われているような「水をかけて」=「水をさす」と容易に訳してよいものかどうかは微妙に留保するものではある)。なお、引用文中にあるように、河合氏はこの後の第六章を「明恵と女性」という六十五頁に及ぶ論考に当てておられる。切に原書を読まれんことをお薦めするものである。]

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