萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅳ)
江を下る身をきる鳥の聲もして利根の夕靄悲哀はせまる
[やぶちゃん注:明治三七(一九〇三)年二月二十五日消印萩原栄次宛葉書より。投函地は前橋。朔太郎、満十七歳。書簡全体との連関性が窺われる歌であるので、全文を引いておく。
二十二日東屋に聲あり、一女生る、
名は未だ知らず幸に面白き御命名も玉はり度候、
先日は美しき葉書難有拜見仕り候 過日小生より差上げたる手紙受取りのことゝ存じ候へ共念の爲申し上げ候、
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友やなせ洗禮を受け候、小生も日曜毎には教會に足をはこび候、疑がはしき節甚だ多く後日御教を仰ぎ申すべく候、
招魂河畔梅の花今を盛りに人の杖ひくもの日々數おほく候 たゞ悔しきは朝夕の逍遙に心行く下河原を畑と化して人の歩むをとゞめたることに候
江を下る身をきる鳥の聲もして利根の夕靄悲哀はせまる
二月廿四日、 前橋にて 美棹生、
「東屋」開業医であった密造の医院の、自宅が東にあったものをかく呼んでいるか。「一女生る」は同年二月二十二日に誕生した妹(密蔵・ケイの五女)アイ(愛子。結局、彼の命名案が示されたらしいが、それ以前にかく命名されていたことが次の書簡(補巻・書簡番号七七三)の冒頭で記されてある)のこと。「先日は美しき葉書」底本注記によれば、利根河原の写真葉書らしい。「友やなせ」同じく底本注記によれば、『日本赤十字社及び東京大學附屬看護業務を學んだ』『簗瀨看護婦會長』『簗瀨まつ』の娘で朔太郎と親交のあったと思しい『簗瀬芙美(當時十五、六歳)のことと思われる』とある。書簡七七三を読むと、家族ぐるみで親しくしていたらしい。なおこの二月に日露戦争が勃発、全集年譜によれば、父密蔵は軍資献納二百円(群馬県最高額)を寄附、計一万二千五百円に及ぶ国庫債券も購入している。また、四月には日本赤十字社篤志看護婦人会群馬支部が結成されいるが、母ケイはその幹事の一人となっているが、これも日露戦争を背景としつつ、『簗瀨看護婦會長』なる『簗瀨まつ』という人物との親密な関係によるものを窺わせるように思われる。
「招魂河畔」前橋の利根川河畔のどこかの川原の通称であろうが、不詳。後の「純情小曲集」の、
利根川のほとり
きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。
や同詩集の「郷土望郷詩」の「監獄裏の林」などの原風景と考えてよいであろうか。]
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