明恵上人夢記 41
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一、又、錢二百、之を儲(まう)く。一百は薩摩公〔佛師〕に與ふ。一百は我(われ)之を持つ。我持てる所の塗滅(とめつ)せる金銀珠等十丸許り、貫きて之を具す。
[やぶちゃん注:底本ではこの後に有意な行空けとアスタリスクが配されてあって、本文の連続性が断たれていることが示されてあって以下、栂尾に移る前後の長い附言が続く。これは無論、「41」夢の前書扱いとした。その前書には冒頭に「建永元年十一月廿七日」のクレジットがある。「40」夢が建永元(一二〇六)年六月十八日で、このノン・クレジットの「41」夢は今までの記述法から「41」夢と同日の第二夢と考えるならば、次の「42」夢との間には凡そ五ヶ月の間隙があることになる。
「薩摩公」底本の編者注に、『法橋俊賀。明恵は彼に春日・住吉の両明神像を画かせている』とある。当時の画僧で、寛喜三(一二三一)年に仁和寺観音院本を手本として描いた京都神護寺本真言八祖像などが知られる。
本夢も後半部がよく分からない。力技で訳したが、ともかくも明恵が得た世俗の金銭の半分を神像を描いた人物への報酬とし、残りを自分の数珠と一体として持つというのは、神仏の加護の下、自身が「正当なる報酬」として「世俗のある利益」を保持している/よいという認識の現われと読めるようには思う。]
■やぶちゃん現代語訳
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一、また、同じく建永元年六月十八日の夜、前の夢に続いて見た夢。
銭二百文を儲ける。百は薩摩公〔仏師。〕に与えた。残り一百文は私の正当なる持ち分として残した。私の所持している、金銀を鍍金した数珠など十粒ばかりがあり、それを以つて貫き、この百文を身に帯びることとした。