芥川龍之介 私と創作 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)
私と創作 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年七月発行の雑誌『文章世界』に「私と創作」の標題、「芥川龍之助」の署名で掲載された。後、作品集「煙草と悪魔」に「序に代ふ――私と創作」の題で所収されている。底本は旧全集を用いたが、初出を尊重し、『――「煙草と惡魔」の序に代ふ――』という副題は除去した。踊り字「〱」は正字化した。「目つかる」「愛憎」はママ。
「閊へれば」は「つかえれば」と訓ずる。
「デイクソンの熟語辭書」これは
origa-56 氏のブログ「猫々坂のひとびと」のこちらの記事に、『漱石は明治二十三年九月帝国大学文科大学英文科にただ一人入学した。英文科は二十年にできたばかりで先輩も一人しかいなかった。学生は文科大学全体でも三十人内外』。『その漱石を教えたのが英文学科主任教授J・ディクソン(James Dixon)だった』。『ディクソンは熟語で英語を教えた。そして日本人のために『熟語表現集』を刊行した。漱石もこの本で学んだ』とあるものかと思われる。]
私と創作
材料は、從來よく古いものからとつた。そのために、僕を、としよりの骨董いぢりのやうに、いかものばかり探して歩く人間だと思つてゐる人がある。が、さうではない。僕は、子供の時にうけた舊弊な教育のおかげで、昔からあまり、現代に關係のない本をよんでゐた。今でも、讀んでゐる。材料はその中から目つかるので何も材料をさがす爲にばかりよむのではない。(勿論さがす爲によんでも、惡いとは思はないが。)
が、材料はあつても、自分がその材料の中へはいれなければ、――材料と自分の心もちとが、ぴつたり一つにならなければ、小説は書けない。無理に書けば、支離滅裂なものが出來上る、僕はあせつて何度もさう云ふ莫迦な目に過つた。唯、弱るのは、その一つになる時が、何時來るかわからない事である。材料を手に入れて、すぐさうなる事もあるし、材料を持つてゐる事を殆ど忘れた時分になつて、やつとさうなる事もある。飯を食つてゐる時でも、本を讀んでゐる時でも、後架にゐる時でもかまはない。その時は、眼の先が明くなつたやうな心もちがする。
そこで、書くものが出來ると、早速書きはじめる。時間は午前中と夜の六時頃から十二時頃までが、一番働き易い。夜の十二時すぎになると、その時は夢中になつて書いてゐても、あくる日見て、いや氣のさす事がよくある。日で云ふと風の吹く日がいけない。季節は、十月から四月頃が、いゝやうだ。場所は、靜で、或程度まで明くさへあれば、何處でも差支へない。
書き出すとよく、癇癪が起る。尤もこれは、起るやうな周圍の中に置かれてあるから、起るので、さもなかつたら、起らないのにちがひない。少くとも餘程穩な心もちでゐられさうに思はれる。が、從來どうもさう行かなかつたから、ものを書く時は、よく家のものをどなりつけた。
癇癪を起さない限り、書く事はずんずん書ける。時によると、字を書いてゐる暇が面倒臭い事もある。もし閊へれば、手あたり次第、机の上の本をあけて見る。さうすると、大抵二頁か三頁よむ中に、書けるやうになつてくる。本は何でも差支へない。子供の時から字引きをよむ癖があるから、デイクソンの熟語辭書なんどをよむ事もある。尤も、書くと云つても、消す事も、書く中へ入れて云ふのだから書き上げた枚數と時間との割合から云へば、寧ろ遲筆の方にはいるらしい、治す方は別して未練なく治す。それでもまだ消し足りなささうな氣がするが。
書いてゐる時の心もちを云ふと、拵へてゐると云ふ氣より、育ててゐると云ふ氣がする。人間でも事件でも、その本來の動き方はたつた一つしかない。その一つしかないものをそれからそれへと見つけながら書いて行くと云ふ氣がする。一つそれを見つけ損ふと、もうそれより先へはすゝまれない。すゝめば、必ず無理が出來る。だから、始終注意を張り詰めてゐなければならない。はりつめてゐても、僕などは、まだ見のがしてしまふ。それが兎に角苦しい。
それから文章にも、可成(かなり)くだらなく神經をなやませる。これは僕には時と場合でとても使へない語があつたり、句の調子が妙に氣になつたりするのだから、仕方がない。たとへば柳原と云ふ町の名前でも、一面にそこいらが綠になるやうな氣がして、その綠に折合ふやうな外の色の語がない以上、どうしても使ふ氣にはなれない。これだけは、實際祟られたと云ふ氣がしてゐる。
書いてしまふと、何時でもへとへとになる。書くだけはもう當分御免を蒙らうと云ふ氣になる。が、一週間と何も書かずにゐると、やつぱりさびしくつて、いけない。何かしら書いて見たくなる。さうして又、前の順序をくり返す。この調子では、これにも死ぬ迄祟られさうである。
書いたものは、活字でよむと、多くの場合いやになる。今までは何時でも、書き方より、こんな物の見方では救はれないと云ふ氣が、痛切にして、云はゞ書いてゐ時より、ふだんの生活そのものに、愛憎がつかしたくなるのである。それから先は、二度目に見て、見直す場合と、愈惡くなる場合とあるが、これはその時々によつてわからない。