耳嚢 巻之九 親友の狐祟を去りし工夫の事
親友の狐祟を去りし工夫の事
米澤の家士なる由、名も聞(きき)しが忘れたり。或日釣に出て餘念なく釣を垂れ居(ゐ)たりしが、後ろの稻村の陰に何かひそひそ咄すものあり。密(ひそか)に伺ふに狐二ツ居たりしが、近日何某の妻病死すべし、夫(それ)に付(つき)一慰(ひとなぐさみ)せんと思ふといふを聞て、甚だ不審に思ひ居(をり)しが、一兩日過(すぎ)て傍輩某が妻果して死しけるが、野邊送り抔いとなみて後、日柄(ひがら)も立(たち)ぬれどとり籠(こも)り有(あり)しかば、いと不思議におもひて見舞(みまひ)けるが、色惡敷(いろあしく)衰えも有けるゆゑ、いかなる事にてかくうつうつと暮し給ふ、最愛の妻なればとて、丈夫のなんぞかく屈しあるべきか、世の中には女も多し、吟味もあらば前にまさるも有べきと、あるは叱り或は恥しめければ、彼(かの)者答へけるは、申(まうす)まじきと思ひしが、誠に深切の事恥入(いり)候事ながら、語申(かたりまうす)なり、亡妻野邊送りし後、有(あり)し姿にて夜毎に罷越(まかりこし)、病ひを尋ね、茶抔自分(おのづ)と沸して我にあたふる樣昔に替る事なし、我も疑敷(うたがはしく)思ふ故、歸る跡を付(つけ)んと思ふに、其身木石の如く動く事ならず、無念心外と思へどもせんかたなく、夫(それ)故にこそ顏色も衰へつらんと答へけるゆゑ、さる事あるべきにはあらねど、今夜は我等も泊りて樣子見んと、宵より酒など呑(のみ)て其側(そのそば)にありしが、夜更(ふく)るにしたがひ頻りに眠く誠にたえがたきゆゑとろとろとするに、彼(かの)亡妻來りて茶なぞ拵へ候て例の通り、明日こそ罷越んとて立歸るとき、己れ妖怪ゆるさじと刀に手を掛しに、惣身木石のごとく動く事ならざれば、無念と齒がみなしゝ處せんなく、さて亭主申けるは、いかゞ見給ふや、我等しとめんと思ひしが、右の通りなれば御身こそ仕留(しとめ)給はんと思ひしに、如何(いかが)なし給ひしといふに、我等も同じく動く事ならず、是に付(つき)祕計の符護(ふご)する間、かの火所(ほど)に入置(いれおき)給へ、急度(きっと)右怪物此後來(きた)るまじとて、宿へ戻りて小さく封じたるものを拵へ、かの火所へ入置、其夜も夜伽(よとぎ)がてら來りて居(をり)しが、前夜の通り彼(かの)亡妻來りていろいろはなし抔いたし、例の通り茶をわかすべしと火を打(うち)、例の通(とほり)竈(かまど)へ焚付(たきつけ)しに彼(かの)祕符に火移ると大きにはねければ、亡者わつといひて驚きさわぎ、かきけして失(うせ)ぬ。夫(それ)といふて追駈(おひかけ)しが行衞しれず。彼祕符はいかなるものと尋ねしに、玉藥(たまぐすり)をよく包みて入置(いれおき)しとなり。狸狐(りこ)の恐るべき、尤(もつとも)の工夫と、人の咄しける。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐譚二連発。
・「米沢」出羽国置賜(おきたま)郡(現在の山形県の東南部にある置賜地方)を治めた米沢藩。上杉氏十五万石。「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年夏当時なら、第十代藩主上杉治広。
・「茶」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『藥』。贅沢にカップリングしたが、これ、実際には狐の尿でも飲まされていたに違いない。
■やぶちゃん現代語訳
親友が狐の祟りを去ったる工夫の事
米沢の家士なる由、その名も聞いたが、失念致いた。
晩秋のある日のこと、釣に出でて、一日(いちじつ)凝っと釣糸を垂れて座って御座ったところが、後ろの稲叢(いなむら)の蔭にて、誰(たれ)か、ひそひそと話す者らがあった。
耳を澄ましつつ、そうっと窺(うかご)うてみたところが、なんと、狐が二疋、そこにおった。それが、人語を操り、
「……コン! 近いうちに……某(ぼう)が妻……これ! コン!……病死するようじゃ……それにつき……一つ コン!……憂さ晴らしを……しようと思う……コン! コン!……」
と言うのが聴こえ、そのまま狐どもは消えて御座った。
男は、
「……まっこと、奇体なことじゃ。空耳か?」
なんどと思うたが、それから二日ばかり過ぎて、傍輩の某(ぼう)が妻、これ、果して病死致いた。
野辺送りなんども営みて後、それなりに日数(ひかず)も経ったれど、某は家に籠ったきり、御役目にも病いと称し、出仕なさざれば、普段のかの男の強健なればこそ、これ、たいそう不思議に思うたによって、ともかくも見舞(も)うてみた。
すると某は、顔色も悪ぅ、何か、げっそりと痩せ衰えておったによって、
「……かくも……うつうつとお暮しになられるとは……これ、どう致いた!? 最愛の妻なればとて、偉丈夫としてならした貴殿が、どうして、かく尾羽うち枯らしたままに、屈託なさっておらるるなどと申すことの、これ、あってよきはずはなかろう!!……世の中には女も多御座ればの、探しようによっては、これ、前にも優(まさ)る後添えも、きっと見つかろうもの!」
と、或いは叱り、或いは自ずから恥ずかしく思うであろうところを突いたり致いたところ、かの者、徐ろに答えたには、
「……実は……申すまいとは思うたが……まことに、親身なる意見を頂戴すればこそ……我らも心底、恥じ入って御座る。……そうは申せ……いや、やはり……お話申すことと致そう。……実は……亡妻の野辺の送りを致いたその後(のち)も……その……夜毎に……ありし姿そのままに……亡妻……我が家(や)へ罷り越し……我が身の患いを尋ねては、これ、心を悩ませ……茶や薬なんどまで、手ずから、沸したり煎じたり致いては……我に飲ませて呉るるそのさま……これ、昔に変わるところのぅ……されど……我らも流石に疑わしゅうは思うたによって……暁方、帰えってゆく跡をつけ、正体を見届けんとも思うては御座ったれど……いざ、その時となると……この身……木石(ぼくせき)の如、動くことも出来ずなって……無念心外なること……とは思えど……さて……優しくさるままに、詮方のぅ。……冥界の者と交われば……それゆえにこそ……顔色(がんしょく)も衰えたに相違御座らぬ…………」
なんどと、これ、驚くべきことを答えたによって、朋輩なる男は、先般の川岸での狐の怪の記憶も蘇って参ったによって、
「……そのようなること……これ、あろうはずもあるまいぞ!……まあ、しかし……よい! 今宵は我らも泊って、とくと様子を見んと致そうぞ!」
と、宵より酒なんど呑み、某が側(そば)に寄りそって御座った。
ところが……
……夜の更くるに従い……何か、こう……異様に眠うなって……まっこと、耐え難き睡魔の襲うたによって、つい、とろとろとしたところが、
……確かに!
……かの亡妻
……生前そのままに
……そろそろと部屋内へと入って来た……
……そうして
……茶や薬なんどを
……拵える仕儀をも致いた……
暫くすると亡妻は、
「……明日も……きっと……また……罷り越しましょうぞ……」
と呟いて、立ち帰らんと致いた。
……そうしたさまを、ここまでは朋輩、夢うつつに見るともなしに見て御座ったが、
『ここが正念場じゃ!』
と下っ腹に力を込め、
「……お、おのれッツ! 妖怪ィ! ゆ、ゆるさじッツ!」
とやっと絞り出すように小さく叫んで、脇に置いて御座った刀に手をかけた……
……かけた……そこまでは何とか手(てぇ)も辛うじて動いたが……後がいけない。……その朋輩もまた……総身、これ、木石の如くなって動くに動けずなってしもうたと申す。
「……む、無念(むぅねん)…………」
と声になるかならぬか、ただただ、きしきしと己れの歯嚙みせし音ばかりが骨を伝って聴こえるばかり……結局、二人固まったままに……何も出来ず御座ったと申す。
曙の空の少し明りし頃おい、やっと二人は正気に返り、身も自由となった。
さても亭主の男、青ざめた亡霊のような顔を朋輩に向けると、言うともなくぼそりと、
「……さても……いかがご覧になられたか……申した通り……我ら、やはり同じごと、妖しのものを仕留めんと思うたれど……先に申した通りのことなれば……さて……御身なればこそ……きっと仕留めて呉るると存じたに……はて……いかがなされた……」
と亡魂の恨み言を述ぶるが如く、問うた。されば、無念至極の朋輩も、正直に、
「……いや! クソッ! 我らも、全く貴殿同様……動くこと、これ、ままならず御座ったわッ!……」
と応えつつも、何か、思いついたように、
――パン!
と膝を打つと、
「――さればじゃ! 実は、我ら、この妖異につき、思い当たること、これ、御座る!――それはまた後日(ごにち)に語らんと存ずるが――さればこそ、我らに秘計の御座る!……これより我ら、貴殿を守る――護符――を用意致そう! しかしてそれを、ほれ! あそこの湯(ゆう)を沸かすところの、竈の火所(ほと)の所に、灰を少し被せて、分からぬように仕込みおかるるがよい!……ふふふ♪ きっと、かの物の怪、向後は来たること、これあるまいぞ!……いいや! そうじゃ! 拙者が何もかも段取り致すによって、貴殿は何もせずともよろしい! しかしてまた、今宵も我ら、貴殿に付き添うよって御安心めされい!――」
と妙なる微笑みを浮かべたかと思うと、自分の宿所へと戻って、何やらん、小さく封じ固めたるものを拵え、またかの男の元へととって返し、かの火所(ほと)へ、その『護符』を入れ置いて、
「不便じゃが、くれぐれも今日は竈をお使いめさるな。宵にはまた参る。」
と述べて、また帰って行った。
そうしてその夜(よ)も再び、宵の口より、かの男の夜伽(よとぎ)がてら、来たって傍らに居った。……
……またしても朋輩の男を睡魔が襲う……
……またぞろ前夜の通りにかの亡妻がそろそろとやって参る……
……また夢うつつにいろいろと亡妻が男に話しかけるのが目に映る……
……されどまた総身は木石……
……しかして例の通り、
「……湯(さゆ)を沸して……薬湯を差し上げ……ましょう……」
なんどと申す。
亡妻は火を打って、いつもの通り、竈(かまど)を焚き付けた。
――と!
――かの秘計の『護符』に火の移った――その途端!
「バババァン!!!」
と、もの凄き音とともに、何かの弾け出でたれば、亡者は、
「わっツ!! わ、コンコン!!! ココッツ!」
と妙な叫び声をあげて驚き騒ぎ、四つん這いになって脱兎の如く駆け出したかと見えて、すっとかき消えて失せた。
同時に朋輩、総身に力の戻ったによって、
「それッ!!」
と、男をも促し、亡妻の後を追い駈けてみたが、その姿は、これ、とんと、行方知れずで御座った。
それ以後、かの亡妻は、とんと、訪ねて来ずなったと、申す。
かの狐に魅入られた男が、
「あの秘密の護符とは……これ、如何なる霊所のもので御座った?」
と訊ねたところ、朋輩の男は、
「――あん? あれか? あれはな――鉄砲の火薬を、ぎゅうっと固めてしっかり包んで入れ置いたんじゃ! なははははっ!」
と言って、呵々大笑致いたと申す。
「……いや! これ、狐狸に対する――実に恐るべき尤もなる『護符』――という工夫で御座いますなぁ。……」
と、さる御仁の語って御座ったよ。