甲子夜話卷之一 14 那須與一、後豫州に住せし事
14 那須與一、後豫州に住せし事
下野の黑羽根侯は〔大關土佐守〕、伊豫の大洲侯〔加藤遠江守〕より義子に住れしなり。此侯の話れしは、那須與一宗隆は、源平合戰のとき、扇の的を射たる褒賞として、豫州を賜り、かしこに住しける。今に宮寺に建立せし所、又は寄納せし武器佛具など、所々に存在す。又野州にて某社は〔神名忘る〕與一本國の氏神とて、豫州より材木を運め造りたる有り。今に至て其營作のまゝなり。予問。然ときは宗隆豫州に在らば、野州はいかにと言たれば、其時は父の太郎資隆住せりと。異聞と謂べし。
■やぶちゃんの呟き
ウィキの「那須与一」を読めば分かる通り、彼は実は実在さえ疑われる部分のある伝承上の英雄である。……静山はこれを一種のトンデモ話として皮肉に記しているわけだが、私はむしろリンク先からリンクされている、彼の末裔とされる那須隆さんを冤罪に巻き込んだ(この事件には再審請求された高校時代からずっと関心を持ってきた。本事件の裁判費用のために僅かに残っていた伝与一とされる那須家家宝もみな売却されてしまったと私は聴いている)「弘前大学教授夫人殺人事件」の、官憲がグルになった杜撰な裁判とその結末(那須さんの国家賠償訴訟の全面敗訴)の方が、およそあり得るはずのないトンデモ話に見えてくる……
「大關土佐守」大関増業(ますなり)。
「加藤遠江守」加藤泰衑(やすみち)。但し、調べた限りでは「遠江守」ではない。
「野州にて某社は〔神名忘る〕與一本國の氏神」現在の栃木県大田原市南金丸那須神社であろう。但し、ここは古く仁徳天皇(三一三~三九九年)時代の創建で、後の延暦年中(七八二~八〇六年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡社としたと伝える。
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