杉田久女句集 294 菊ヶ丘 Ⅹ 角川書店昭和二七(一九五二)年十月二十日刊「杉田久女句集」 了
別府 三句
佇ちよれば湯けむりなびく紅葉かな
海地獄
湧き上る湯玉の瑠璃や葛の雨
這ひかゝる温泉けむり濃さや葛の花
横濱にて 三句
寸陰を惜み毛糸を編む子かな
クリスマス近づく寮の歌稽古
毛糸卷く子と睦じく夜の卓に
税關にて 二句
屋上の冬凪にあり富士まとも
北風吹くや月あきらかに港の灯
[やぶちゃん注:この「横濱にて 三句」と「税關にて 二句」の六句は、横浜税関長官官房の秘書役をしていた長女昌子さんの恐らくは独身時代の句(「寮」が出る)と推察する。昌子さんの結婚は昭和一二(一九三七)年十一月であるから、時制的にはそれより前(結婚直近の可能性も高い)の句作である。本句集の極めて特異な点であるが、大きな標題句群は時系列上の一応の纏まりを持っているように見え乍ら、その中の並び(概ね季別)では編年性がほぼないと考えてよい点である。これは本句集を読む上で最も気をつけねばならぬ点である。]
昭和十七年光子結婚式に上京 三句
歌舞伎座は雨に灯流し春ゆく夜
蒸し壽司のたのしきまどゐ始まれり
鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな
[やぶちゃん注:「昭和十七年」は久女の誤りと思われる。次女光子さんの結婚は昭和一六(一九五一)年十月である。底本の長女昌子さんの編に成る年譜に、『十月、次女・光子、竹村猛に嫁す。結婚式に上京、鎌倉在住の昌子宅に泊ったが』(この叙述からも直前の句群とはスパンがあることに気づかれたい)、『精神的な精彩なく、悲痛で胸が痛んだ。若夫婦は台北の任地(台北高商)へ赴く。神戸より乗船、文字に寄港碇泊、戦時中とて上陸禁止。普通は面会できないところ、宇内の教え子が門司税関にいたため、税関のランチで船に赴き別れを告げてきた。これは次女・光子との最後となった。このときは小倉中学のおかげだったと非常に喜んでいた』とある。久女、五十一。
因みに、この光子さんの夫竹村猛という人物は、橋本恭子氏の論文「島田謹二『華麗島文学志』におけるエグゾティスムの役割」(「日本台湾学会報」第八号・二〇〇六年五月発行)の中で、占領下の『台湾文壇での1940年代に入って日本人と台湾人が共に文学活動を行うようになると、台湾文壇では約2年にわたり「エグゾティスム」と「レアリスム」をめぐる議論が展開され、「外地文学」の本質は「レアリスム」にあるとの共通認識が確立していく』。『日台双方の論者は一連の議論を通じ、台湾の文学が内地から「エグゾティック」と見られるのは仕方ないにしても、作家たちはそれを意図すべきではなく、あくまで台湾という土地に根ざした「レアリスム」の文学を目指し、台湾文化の向上をはかるべき、との結論に達した。もっとも、台湾人作家の龍瑛宗(1911―1999)と黄得時(1909-1999)は「エキゾチシズム文学はあつてもいゝ」と文学の多様性を認め、台北高商講師の竹村猛も、「エグゾティスム」の真偽は素材に対する作家の態度に係わるものであり、「真のエグゾテイスム」は今なお「取り出されるべき価値」がある、と一連の議論を締めくくった』と出る「竹村猛」なる明らかに文学者(同論文註には彼が『台湾公論』1942年9月刊に「作家の態度」という評論を書いていることが分かる)と思われる人物と同一人物と考えてよかろう。彼の載る人名リストをネット上で得たが、そこには台北高商講師の彼の生没年と思われるデータが載り、『1914-1987』とある。これが正しいとすれば大正三年生まれ(光子さんより一つ年上)で昭和六十五年に逝去されておられる。これはフランス文学者中央大学名誉教授であった竹村猛と同一人物である。昭和一五(一九四〇)年東京帝国大学仏文科卒。中央大学教授、一九八五年に定年退任して名誉教授。十九世紀フランス文学を専攻、多くの作品を翻訳した、とウィキの「竹村猛」に載る。その著作リストを見て驚いた。私はこの竹村氏の訳書を胸躍らせて読んでいたことに気づいたからである。……アレクサンドル・デュマ「三銃士」(一九六一年~一九六二年・角川文庫/後に偕成社文庫・角川文庫。私は偕成社版を読んだ)……「モンテ・クリスト伯爵」(一九六八年・旺文社文庫)……。
角川書店・昭和二七(一九五二)年十月二十日刊の「杉田久女句集」の句本文は本句をもって終わっている。
杉田久女、本名杉田(旧姓赤堀)久(ひさ)は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、大宰府県立筑紫保養院にて腎臓病悪化のために満五十五と八ヶ月(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生)で亡くなった。――]

