耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事
猛蟲滅却の時ある事
廿年程以前の事なる、相州大山(おほやま)より谷を餘程隔(へだて)たる所に、□□村有。彼(かの)村方の山に年をふる古木ありて朽(くち)たる穴ありしが、右の内に數年住(すみ)けるうはばみ、折節は形をあらはし眼精鏡の如く、里人驚き怖れ、或は煙(けむり)を吹き又は鳥獸を取(とり)て食ひ、人はおそれて用心なせ共、時にふれて害をなしけるが、或夏の夜ひとつの火の玉、大山の方より飛來(とびきた)ると見しが、右の大木の榎へ落(おち)、炎々と燃上(もえあが)りしが、夜中すさまじき音して震動する事ありしが、翌日見れば右榎は片(かた)の如く燒けて、うはばみもともに燒(やけ)ぬ。右の骨をば所の者恐れて近邊の川原へ埋(うづ)め捨(すて)しを、醫官山崎氏壯年の頃、彼(かの)地へ至りし時、骨をひとくるは貯置(たくはへおき)し民の元に泊り、したしく見たりし由。右の委細あるじ、山崎氏へ物語りせしと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狸から怪蛇の異類調伏譚で連関。
・「廿年程以前」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、その二十年前だと、寛政元・天明九(一七八九)年頃となる。現在の大山阿夫利(あふり)神社のある大山は別名を雨降山(あふりやま)と呼ぶ。江戸時代は石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られ、江戸庶民の大山詣で知られていた。他にも大天狗や小天狗が祀られていたし、何より山名から分かるようにここは雨乞いの霊験で知られていたから、火の玉(雷神)との相性もあると言える。
・「大山より谷を餘程隔たる所に、□□村有」単なる直感であるが、現在の神奈川県愛甲郡清川村は同定候補地にはなろう。
・「醫官山崎氏」本巻の頭に出た龍譚の山崎宗篤なる人物と同一人物であろう。「壯年の頃」とあるから、この人物は談話時には既に五十を越えていると考えてよいか(因みに執筆当時の根岸は満七十二歳)。
・「ひとくるは」一包(くる)みか。「くるは(くるわ)」には一つのものを纏めた一帯の意があるから、そこから数詞として誤って使ったものかも知れない。
■やぶちゃん現代語訳
猛けき異類も滅却の時の必ずある事
二十年程以前のこととか。
相模国の大山(おおやま)よりよほど谷を隔てたる所に、□□という村がある。
かの村方の山に、年を経たる大きな古木の榎(えのき)のあって、そこに朽ちたる洞(うろ)の空(あ)いて御座ったが、この内に、数年に亙ってここを棲家となしおる蟒蛇(うわばみ)がおったと申す。
しばしばその姿を洞(うろ)より出だすことのあったが、その眼玉は爛々と耀(かがや)き、あたかも鏡の如くにして、あまりのおぞましさに里人は皆、驚き怖れておったと申す。
時によっては、その大きなる口より、真っ赤な刺又(さすまた)の如き舌をぺろぺろと出だしつつ、怪しげなる毒煙をば吹きつけ、または近くの鳥や獣を手当たり次第に捕っては食うて御座った。
人は恐れて用心致いては御座ったものの、時には、その毒気(どくき)がために害を受けて御座ったとも申す。
ところが、とある夏の夜(よ)のこと、一つの大いなる火の玉が、これ、大山の方(かた)より飛び来ったかと思うと、かの大木の榎へと落ち、夜空を焦がすが如く、炎々と燃え上がった。
暫くすると、紅蓮の炎の立ち昇るその真ん中より、天地をひっくり返すような、凄まじき音のして、大地が鳴動致いた。
翌朝、村人らが恐る恐る近づいてみると――かの榎は想像した通り、完膚無きまでに焼け落ち――蟒蛇もまた、ともに、その長々しき形のまま、黒焦げとなって焼け死んでおった。
それでもその蟒蛇の骨を所の者どもは恐れて、皆してかき集めると、近くの河原(かわら)へ持って行き、埋め捨てたと申す。
私のところへ参る幕府医官の山崎氏は壮年の砌り、かの地をたまたま訪れた折り、その蟒蛇の焼けたる骨を一包み、秘かに貯えおいておった村人の元に泊り、親しくそれを見せて貰ったとの由にて、その折り、以上の委細を、宿の主人(あるじ)が山崎氏に直接物語ったと、山崎氏本人より聴いて御座る。
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