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2014/10/09

甲子夜話卷之一 7  佐野善左衞門於殿中少老田沼山城守を切りし事

 佐野善左衞門於殿中少老田沼山城守を切りし事

予若年の頃、若年寄の田沼氏を、新番衆佐野善左衞門と云人、殿中にて切しとき、大目付松平對馬守、佐野を組留たり。其頃の人話に、佐野が刀を振揚て切る迄は、對州其後に附き居たりしが、佐野切おほせたるとき、乃組留たりと云。時人評するは、百年前、淺野氏が吉良氏を打しとき、梶川某の組留たるは、武道を知とは云がたし。此人の心得は尤なることなりと、心あるものは感賞せりと云。予も此對州はよく見知たり。老體にて頭髮うすく、常は勇氣ありとも覺えざりし。又叔父の同姓越前が語しは、佐野、田沼を切しとき、彼御番所の前を田沼通らるゝとき、後より佐野申上ます〻〻〻と云ながら、刀を拔き、八さうに構へ追かけ、田沼ふり返る所を、肩より袈裟に切下げ、返す刀にて下段を拂たりしを、越前目の當り見たりしと云。或曰、此刀は脇指にして二尺一寸、粟田口一竿子忠綱なりき。是よりして俄に忠綱の刀價沸騰せりとぞ。當時の人氣思知べし。又言ふ、此時田沼氏の持たる脇指は貞宗なりしが、鞘に切込付しと。定て佐野が下段の拂當りたるべし。彼家の申分んには、佐野が打つ太刀を、鞘ながら拔て受たるときの切込なりと。いかゞ有けんかし。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏」田沼意知(おきとも 寛延二(一七四九)年~天明四(一七八四)年四月二日)。田沼意次嫡男。異例の出世を果したが、この事件の傷が元で亡くなった。享年三十五。

「佐野善左衞門」佐野政言(まさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四(一七八四)年五月二十一日)。旗本。佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし代々番士を務めた家であり、政言は六代目(父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務めた)。安永二(一七七三)年に致仕した父に代わって政言が十七歳で家督を相続、安永六(一七七七)年に大番士、翌安永六(一七七八)年に新番士となった。天明四(一七八四)年三月二十四日、江戸城中で、若年寄・田沼意知を「覚えがあろう」と三度叫んでから、大脇差で襲撃、その八日後に意知が絶命したため、切腹を命じられた(政言には子がなかったため、長く佐野家は絶家であったが幕末になって再興されている)。犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りたまま返さなかったこと、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領して田沼大明神にしたこと、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかったことなど諸説あったが、幕府は「乱心」とした。しかし、世間から人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められ、血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた(以上はウィキの「佐野政言」に拠る)。

「松平對馬守」松平忠郷。但し、知られた同名の人物(かつて赤穂藩に仕えながら討入りに加わらなかった弟岡林直之を切腹させた松平忠郷(リンク先はウィキ。以下も同じ)陸奥会津藩第二代藩主蒲生(松平)氏郷など)とは異人。

「梶川某」梶川頼照(よりてる)。ウィキの「梶川頼照」には彼の日記の現代語訳と解説が載り、そこに『頼照はその後の赤穂浪士の討ち入りで高まっていく浅野贔屓の空気の中で辛い思いもしたようである。日記の最後には「この事件のことを色々知ることになった今となれば、内匠頭殿の心中は察するにあまりある。吉良上野介殿を討てなかったことはさぞかしご無念であったろう。本当に不意のことだったので自分も前後の思慮にまで及ばなかったのである。取り押さえたことは仕方なかった」と言い訳が添えられている』とある。

「叔父の同姓越前」松平忠郷の叔父か。松浦静山の叔父に相当する人物は探し得なかった。

「八双」八相の構え。ウィキの「五行の構え」から引用する。『刀を立てて右手側に寄せ、左足を前に出して構える、野球のバッティングフォームに似た構え方。この構えを正面から見ると前腕が漢数字の「八」の字に配置されていることから名付けられており、刀をただ手に持つ上で必要以上の余計な力をなるべく消耗しないように工夫されている。相手との単純な剣による攻防では実用性が多少犠牲になっており、例外的に相手の左肩口から右脇腹へと斜めに振り下ろす『袈裟懸け』や相手の鞘を差している側の胴体を狙った『逆胴』は仕掛けやすいものの、これらの技は現代の競技剣道において有効打突とはならない(あるいは非常に判定が厳しい)ことが多い。長時間に渡って真剣(場合によっては野戦用の大型な刀槍)を手に持ち続けなければならない状況のために、自然発生したと思わしき構えである。八双の構えとも書き、陰の構え、木の構えともいう。上段が変形した構えと考えられており、立て物(飾り)がある兜を着用している際に刀を大きく振りかぶるのが難しい場合の上段構えである』。『真剣を用いた多対一あるいは多対多の乱戦や、野外や市街地など障害物の多い場所での戦闘において、武具を装備した状態で真剣を抜刀したまま全力で戦場を動き回る必要がある状況では役立つであろう構えである。いつ終わるとも知れぬ戦闘では余計な体力を使えないし、そもそも単純に重い武器を何時間も構え続けるのは難しい。また、乱戦においては仲間の位置との兼ね合いで、他の構えを取るスペースが無い場合も大いにあり得る』。『また、具足を着用している時にこそ有効な構えとも言える。写真の様に刀を構えることで左肩の装甲が正面にくるため、致命傷となりうる箇所(心臓と喉元)が隠れるためである』。『現代の剣道における試合競技は一対一で時間制限があり、あらかじめ決められた規格に従った道具を両者が用い、障害物がなく範囲が定められたフィールド上で戦う事を要求される。さらに有効打とされる箇所が限られているため、八相が実際に主力の構えとして使われることは稀であり、基本的には日本剣道形でしか見ることが出来ない』。

「粟田口一竿子忠綱」粟田口近江守忠綱(あわたぐちおうみのかみただつな)。初代近江守忠綱の息子で、のちに二代目を継いで一竿子(いっかんし)と号した大坂新刀の代表刀工。その美事な刃紋は「足長丁子(あしながちょうじ)」と呼ばれてもて囃された(足長丁子刃は刃文の名称。特に足(刃中の働きの一つで刃縁から刃先に向かって細く入るもの)の長いものをいう)。新刀、新々刀期に多く、大阪の一竿子忠綱に代表される刃文でもある。。刀剣販売サイトに、本事件のことが載り、それに意知の死によって『高騰していた米価が急落した為に佐野氏とこの粟田口近江守忠綱の脇差が「世直大明神」として讃えられ、それまで以上に一竿子忠綱の脇差はいやがおおにも人気が高まり高騰し』たとあり、『津田越前守助廣や井上真改とともに江戸時代より高価な物で、高級武士でなければ持てなかった』とある(リンク先で彼の作物の写真が見られる)。他の刀剣販売サイトの解説には、彼は刀身その物を損ねることなく良く調和した彫り物を入れるのを得意としたともある。

「二尺一寸」約六三・六四センチメートル。

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