甲子夜話卷之一 10 赤穗の義士大高源吾が小木刀の事
10 赤穗の義士大高源吾が小木刀の事
赤穗の義士大高源吾、復讎の前は身を忍て、按摩醫者となり、米澤町の裏家に住ける。其時常に木作にて、身の無き小脇指をさし、所々に療治に往たり。其小木刀に、自詠の一首を彫つくる。
人きればをれもしなねばなりませぬ
それで御無事な木脇指さす
此哥を味ても、始終思はかりたる志は知るべし。但當年見し人の感慨深からざりしにや。
■やぶちゃんの呟き
「大高源吾」大高忠雄(おおたかただお 寛文一二(一六七二)年~元禄十六年二月四日(一七〇三年三月二十日)。俳人としても知られた。ウィキの「大高忠雄」によれば、赤穂城開城後は大津や京都に住み、『忠雄は大石の信任がかなり厚い人物の一人で重要な局面でよく使者に立てられ』たとある。元禄一五(一七〇二)年秋に江戸に下向するが、この時、『豪商綿屋善右衛門(赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より』二十六両を借用、遺作として自ら編した俳諧集「二ツの竹」を下向直前に出版しているが、そこには親交のあった俳諧の師水間沾徳(みずませんとく:其角なきあとの享保俳壇の第一人者。)や宝井其角などの錚々たる俳人が句を寄せている。『江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門』、十二月十四日に『吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は忠雄の入手した情報を、横川宗房が親しくしていた上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、信用し、この日を討ち入りの日と決め』ている。『吉良屋敷への討ち入りでは、忠雄は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では』彼を知る僧侶から一句を求められ、
山をさく刀もおれて松の雪
の一句を残したという。『江戸幕府により大石の嫡男大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられ』、忠雄は松平家預かりの浪士十人の最後に切腹の座について、
梅で呑む茶屋もあるべし死出の山
の辞世を残し、松平家家臣宮原頼安の介錯で切腹した。享年三十二であった。『戒名は、刃無一劔信士。宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている』とある。「逸話」の項にも、其角との交友が記されており、『討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は』餞別と称して、
年の瀨や水の流れと人の身は
と詠んだところ、忠雄は
あした待たるるその寶船
と返して、『仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残る。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられ』ているとある。
「身の無き小脇指」木製の小脇差し。小木刀。
「但當年見し人の感慨深からざりしにや」これは先に示した宮原頼安の感懐を代弁すると言ってもよいのではあるまいか。「人を斬れば俺も死なねばなりませぬそれで御無事な木脇指差す」と狂歌で諧謔したことを知っていた江戸の彼の昵懇と思っていた人々が、そんな彼が実に美事討ち入りを果したことを知った時、その源吾の真意を知った、その感慨たるや、如何ばかりのものがあったであろうか、と静山は感懐しているのである。大事なことは――そこ――である。
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