耳嚢 巻之九 人魂の起發を見し物語りの事
人魂の起發を見し物語りの事
日野豫州若輩の時、同人家來久敷(ひさしく)煩ひて全快すべき體(てい)にあらず。側向(そばむき)を勤(つとめ)、したしく遣ひけるゆゑ、長谷へも尋(たづね)たる事ありしが、或時馬場へ出て暮過(くれすぎ)に外(ほか)家來を召連れ、彼(かの)煩ふ家來の抔尋ねてかえりけるに、右煩ふ家來の長屋門口に、吹殼(すひがら)よりは少し大きくろうそくの眞を切りしといふべき火落(おち)てあるゆゑ、火の元の不宜(よろしからず)、ふみ消(けし)候へといゝしが、見るが内に右の火一貮尺程づつ登り下りして、無程(ほどなく)軒口(のきぐち)程に上りければ茶碗ほどに大きくなりしが、何となく身の毛よだつ樣なれば内へ立歸りしが、果して其夜彼(かの)家來身まかりしと、豫州かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐から人魂で久々に本格怪異譚の五連発である。
・「日野豫州」高家旗本日野資施(すけもち 明和四(一七六七)年~文政元(一八一八)年)。高家旗本畠山義紀次男で吉良義央の曾孫に当たる。ウィキの「日野資施」によれば、『官位は従五位下侍従、伊予守』で、高家旗本日野資直の養子となった。天明七(一七八七)年二月に将軍徳川家斉に御目見、寛政四(一七九二)年八月に家督相続、享和二(一八〇二)年十二月に高家就任、従五位下侍従伊予守に叙任されたが、文化四(一八〇七)年三月には高家を辞任しているとある。『なお、根岸鎮衛の著書『耳袋』には資施の体験談として、重病で臥していた家来の住居の前で火の玉(人魂)を見付けたところ、ほどなくその家来が死去したという話が収録されている』と記すから彼に間違いない。なお、底本の鈴木氏や岩波版長谷川氏注は孰れも『前出』とするが、私の記憶では前には出ていないように思われる(注した記憶がない)。お二人が述べておられることであるが、これは失礼乍ら、「耳嚢 巻之八 駒井藏主幽魂奇談の事」の同じ高家旗本で同じ「日野伊豫守」であった別人日野資栄を誤認したものではなかろうか? 因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏である。
・「側向(そばむき)」及び「吹殼(すひがら)」は底本の編者ルビ。
・「長谷」底本では右に『(長屋)』と補正注がある。
・「吹殼よりは少し大きくろうそくの眞を切りしといふべき」「眞」には底本では右に『(心)』と補正注がある。煙草の吸殻は大きくても一センチはないと思われ、蠟燭の芯の燃え残りも通常なら二センチよりも遙か前に切るであろうと想像されるので、この火の玉の直径は一センチから一・五センチメートル内外と思われる。しかも、かく描写しているということは、その火種の色が自然な赤いものであったことを意味していると考えてよい。
・「一貮尺」一尺は三〇・三センチメートル。当時の長屋の軒は二メートルもなかったか。
■やぶちゃん現代語訳
人魂の出来(しゅったい)を目撃したる物語の事
日野予州資施(すけもち)殿、若輩の頃、同人家来、久しく患(わずろ)うて、これ、最早、復すべき病態にもあらずなって御座ったと申す。
この家士は、側向(そばむ)きの御用を勤め、昵近の家来として遣(つこ)うておられた者であったによって、かの者の長屋へも、予州殿御自ら、御見舞いに赴かれたことも御座った由。
ある時のこと、予州殿、馬場へ出でて、暮れ過ぎに外の御家来衆を召し連れ、また、かの患う家来の元などを見舞(みも)うてお帰りになられんとしたが……ふと見ると……その患う家来の長屋の門口(かどぐち)に……これ――煙草の吹殼よりは少し大きく、蠟燭の芯を切ったほどかと思う、小さなる――火(ひぃ)が――落ちて御座った。
されば、
「火の元の宜しからざることじゃ。――誰(たれ)ぞ、踏み消しておくがよい。」
と命ぜられた。
……と……そう言うたそばから……
……みるみるうちに
……この火玉
――ふぅわり
……と
……一尺――
……二尺――
……と
……昇ったり降りたりし
……ほどのぅ
……軒口(のきぐち)ほどにまで昇った
……しかも
……その頃には
……それは
……茶碗ほどに大きさにまでなって御座った…………
……さても……何とのぅ、身の毛のよだつようなものにて御座ったによって、早々に屋敷内へと、たち帰られた。
「……が……はたして、その夜(よ)のこと、かの家来……これ……身罷って御座った。……」
と、予州殿御自身、語っておられた。
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