芥川龍之介 私の創作の實際 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)
私の創作の實際 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年十一月発行の『文章倶楽部』に標記の見出しで、芥川龍之介の後に野村愛正(小説家・脚本家)、小川未明の一文が続く。即ち、標記のものは雑誌編集部が附けたものであり、芥川の文章全体には標題はない。アンケートのへの回答といった形式の原稿であったものと推測される。他の二作家の文にも以下に見るのと似たような小見出しがあるのを見ると、これらも編集部で勝手に附したものである可能性が高いと思われることから、本テクスト本文では「私の創作の實際」の標題を敢えて除外した。
龍之介満二十六歳、二月に塚本文と結婚、年譜上の事蹟を見ると、いやでいやで仕方がなかった横須賀海軍機関学校の英語教官を辞める意志がこの九月頃には現実を帯びていた模様である。発行月のこの十一月の上旬には重いスペイン風邪に罹患して著しく衰弱、半ばは冗談交じりながら、
胸中の凩咳となりにけり
病中髣髴として夢あり
凩や大葬ひの町を練る
といった辞世の句のようなものを詠んだりしていたことが書簡から分かる。
因みに、直近の発表作は十月に「枯野抄」「邪宗門」(連載中)、同十一月に「るしへる」、直後では翌大正八年正月号の各雑誌に「毛利先生」「犬と笛」「あの頃の自分の事」が発表されており、同八年一月十五日には第三創作集で芥川文学のピークを飾る「傀儡師」が新潮社より刊行された。
底本は旧全集を用いたが、総ルビを読みの振れると判断したものだけのパラルビに変えた。太字の部分は底本では傍点「△」である。踊り字「〱」は正字に直した。
文中に出る『松屋の半枚の原稿紙』は芥川龍之介最期の遺書でも同じものが用いられている(よろしければ、私の「 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」を参照されたい)。]
よく書ける時
小説のよく書けるのは、時候でいふと、秋から冬にかけて。時刻でいふと、午前と夜――夜も十二時まで、それから先は、急がないやうでも急いでゐる――場所でいふと、明るくて靜かな處に限る。但し、その室(へや)の戸や障子の締め切つてある事が必須の條件で、若し戸や障子が開いてゐると、そこから書かうとする物が逃げて行く樣な氣がしていけない。又人が傍(そば)に居ては書けない。殊に書けないのは風の吹く日だ。
書けなくなつた時
若し書いてゐるうちに、ちよつと筆のつかへる事があると、私は、心持を寛げるといふか、緩めるといふか、よくそこらにある本を開けて見る。或は家の者か、近所に住む友達かに合つて、一時間ばかりも話をする。すると又直ぐに書き出せる。
題のつけ方
標題その物を切り離して見ると、極く人目を聳動(しようどう)しない、そして、その題を小説と照應して見る場合に、初めてそれが十分な意味を持つて來る。これまでの私の小説の中では、「忠義」「手巾」などが、殊に自分の急に適つた標題で、「首の落ちた話」などは、寧ろ例外のものである。
書く速さ
私の原稿を書く速さは、全く分らぬ。一日に十枚以上も書いたのを、翌日になつて皆捨てゝしまふ。かと思ふと一日に書き上げた三枚が、その儘(まま)遺(のこ)る事もある。
書いてしまふと草臥(くたび)れる。しかし好(い)い心持で、何時(いつ)までもぶらぶら遊んでゐたいと思ふ。けれども、それが二三日經つと、矢張り又書き度くなる。
ペン、原稿紙その他
ペンは、萬年筆が嫌ひで金G(きんジイ)を使ひ、インキは、普通のブリュウ・ブラックで、松屋の半枚の原稿紙に香書いてゐる。
創作の筆を執らない時間は、一週五時間づつの英語の授業と、本を讀む事と、芝居や活動――大抵西洋の寫眞――を見に行つたり、散歩をしたり、友人の訪問をしたり受けたり、旅行をしたり、又下手な俳句を作つたり、更に下手な繪を書いたりする事に過ごす。運動と云つては別にしないが、唯夏の間丈けは盛んに海に入る。
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