今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 掉尾 蛤のふたみへわかれ行く秋ぞ
本日二〇一四年十月十八日(当年の陰暦では九月二十五日)
元禄二年九月 六日
はグレゴリオ暦では
一六八九年十月十八日
この日、芭蕉は伊勢参宮へと大垣を発った(午前八時頃のことであった)――それと同時に凡そ百五十日になんなんとする「奥の細道」の旅が――終わった――
蛤のふたみへわかれ行(ゆく)秋ぞ
露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
[やぶちゃん注:第一句目は九月二十二日附杉山杉風宛書簡の句形で、これが初案と思われる(これは安東次男「古典を読む おくの細道」に基づく)。第二句目は「奥の細道」(本文とも)。
このルートは揖斐川を下って河口の、蛤を名産とする桑名に出る。蛤はまずそこでしっくりとくる。
しかも、これは遠く旅立ちの、かの、
行春や鳥啼魚の目は泪
と響き合っていることにも容易に気づく。――行く春の日に、『千住と云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ』という幕開きに対して、行く秋の大垣の湊から『又舟にのりて』漂泊の新たな旅路を辿る――という連続性を演出するとともに、「奥の細道」という壮大華麗な絵巻の美しい額縁をも成しているのである。
本句の下敷きは、西行の「夫木和歌抄」(藤原長清撰になる私撰和歌集)の続国歌大観番号八三八二番歌で、「山家集」にも所収する(底本は岩波日本古典文学大系を用いた)、
伊勢の二見の浦に、さる樣(やう)なる
女(め)の童(わらは)どもの集まりて、
わざとのこととおぼしく、蛤をとり集め
けるを、いふ甲斐なき蜑(あま)人こそ
あらめ、うたてきことなりと申しければ、
貝合(かひあはせ)に京より人の申させ
給ひたれば、選(え)りつつ採るなりと
申しけるに
今ぞ知る二見の浦のはまぐりを貝合せとて覆(おほ)ふなりけり
である。通釈する。
――今こそ私は知った……侘しい二見の浦のがんぜない卑賤の少女たちが懸命に拾い集めているはまぐりを……我らは貝合わせしょと言ふて覆っては遊び暮らしていたのであったのだなあ……
この歌に現われたものは、単純な女児の貝合わせとしての遊び道具ではなく、中に彩色画を描いた本格的な婚姻儀礼用に作製された貝覆いと考えてよい。
さればこそ、この一句は大垣連衆への留別吟であると同時に、彼らへの愛惜の恋句でもあるという仕掛けに気づく。
一時の別れは何時か必ず貝合わせの貝のように、いやさ、蓋と身のように本来あるべき自然として堅く結ばれるのだ――という謂わば――離別即邂逅――という禅問答のようなものなのだと私は思うのである…………
以下、自筆本を示す。
*
露通もこのみなと迄出むかひてみのゝ
国へと伴ふ駒をはやめて大垣の
庄に入は曽良も伊勢よりかけ合
越人も馬をとはせて如行か家に
入集る前川子荊口父子其外
したしき人々日夜とふらひてふた
たひ蘇生のものにあふかことく且
の
よろこひ且なけきて旅ものうさ
も
いまたやまさるに長月六日になれは
伊勢の遷宮おかまんと又ふねに
乘て
蛤のふたみに別行 秋 そ
*
■やぶちゃんの呟き
私とともにこの「奥の細道」を今年、一緒に辿って呉れた奇特なあなた――あなたは永遠に――私の人生の道連れである――――]
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