甲子夜話卷之一 8 御老中松平豆州と戸田氏優劣の事
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故松平豆州〔老職〕、故大垣侯〔戸田采女正、是亦老職〕、上野御廟を拜して退くとき、二天門の間にて、雁間衆の嫡子某に行逢れしに、其人地に伏して禮す。大垣侯は膝まで手を下して禮せらる。豆州は一向見もせずして行過たり。觀者、二侯の優劣此一事にてもしるべしと云き〔老中に行逢ときは、歩を留て立ながら禮する通禮なり。雁衆の人、己の分を失ひて禮に過ぐ。大垣これを受るは非禮なり〕。
■やぶちゃんの呟き
「松平豆州」三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明」によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。かなりの権勢家であったことがよく分かる。
「大垣侯」大垣藩第七代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた戸田氏教(宝暦五(一七五六)年~文化三(一八〇六)年)。老中在任は寛政二(一七九〇)年~文化三(一八〇六)年であるから、本話は寛政二(一七九〇)年から享和三(一八〇三)年の間の出来事ということになる。ウィキの「戸田氏教」によれば、享和三年十二月に老中首座であった松平信明の辞職後に次座であった氏教が後任の老中首座になったとある。また、『幕閣の一人として主に幕府の財政を改革するなど、多大な功績を残した。幕府財政は対外問題や将軍・家斉の浪費から文化年間に入ると経常収支は赤字に転じたため』文化二(一八〇五)年には『経費削減のために代官を減員し、減員した代官に割り当てていた幕府直轄領を大名に預けたりした』。『また、大垣藩でも教育や治水について勤倹し自ら模範となり、自藩の財政や武辺の増強を図った。大垣中興の名主と称され』たとあって、ここでは貶められているものの、なかなかの名君であったことが窺われる。
「上野御廟」寛永寺徳川家霊廟。徳川将軍十五人の内の六人(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)が祭祀されている(家康は日光東照宮、家光は輪王寺、他の六人(秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂)は増上寺。唯一の水戸徳川家出の慶喜は神葬で谷中霊園に眠る)。
「二天門」寛永寺の巌有院(徳川家綱)霊廟にあったものを指すか。増長天(向かって左)と持国天(右)を配していた。現在、この二像は浅草寺の二天門にある。
「雁間衆」雁間(かりのま)は江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つ伺候席(しこうせき:控の間。)の一つで、『幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席。老中や所司代の世子もこの席に詰めた。ここに詰める大名は「詰衆」と呼ばれ、他の席の大名とは異なり毎日登城するため、幕閣の目に留まり役職に就く機会が多かった』とある(ウィキの「伺候席」に拠る)。「老中や所司代の世子」というところで本文の「嫡子」という謂いの意味が判明する。
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