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2014/10/26

甲子夜話卷之一 19 遊女七越が事

19 遊女七越が事

予年若き時、吉原町に住て三線彈を業とせし荻江源藏と云ものありしが、某生涯かく迄羞入たることはなしとて語りし。其比七越と云て名高き倡妓の、いまだ禿童にて居たるとき、殊の外にさがなく有たれば、源藏之に言しは、汝いまだ年幼けれども、後迄かくは有まじ。年長ぜば大夫傾城とも云はるべし。左なくば何の里何の巷の末にか零落せん。若幸に名ある大夫とならば、其時は我に仕着を贈るべし。今より屹と約し置と戒たるに、是より源藏も等閑に打過て、二三年も立ぬ。或時この婦を養置し扇屋と云るより、源藏に來るべしと云。源藏、三絃のことならんと出往たるに、さには非ずして、彼の兩三年前さがなりし禿童の、其日は突出とて新たに大夫女郎になり、七越と名乘りて、其開筵の日なり。其席に入るに、燭を列ね、氈を敷き、長倡雛妓並居たり。七越、上坐より源藏を呼ければ、源藏其坐鋪の樣を見て、覺ず平伏したるに、其時七越兩手をつき、謹て申たるは、兩三年前御戒を乘り、深く忝く覺て年月忘ざりしに、今日此ごとき身とは成りぬ。かねて約し置たる仕着は、今日ぞ上るなり。着してこの筵を賀し給はるべしと云て、蒔繪の廣蓋につみたる物を持出たれば、源藏見るに、上衣より下衣、襦袢、帶、袴、扇迄も、殘なく具して、其うへに七越が紋をさへ染出したるなり。源藏思はずもあつと平伏し、前言を慙悔し、そのとき地を堀ても入たく有しが、その席去べくも非れば、是非なく其夜は周旋して居たりとなり。かゝる徒にも、信を違はざるものは有き。況や婦女の身にしては、ますます珍らしきことなり。又その慙愧せしものも、其業の輩には采るべきの心なり。世の士君子、これを聞て恥に堪ざるもの多かるべきにや。

■やぶちゃんの呟き

 この話、とても好きだ……私はこの源蔵の生まれ変わりなのかも知れない……緋毛氈が敷かれた座敷……その向こうの七越の姿……仕着(しきせ)の紋まで……見たような気になってくるのである……

「荻江源藏」江戸中期以来の荻江節の家元である初代荻江露友(おぎえろゆう ?~天明七(一七八七)年)か二代目か。初代の本姓は千葉、名は新七。元、陸奥弘前藩家中千葉源左衛門の子であった。長唄唄方の初代松島庄五郎の門人となった。明和三(一七六六)年から明和五(一七六八)年には江戸市村座で長唄の立(たて)を勤め、引退後は御座敷風長唄の荻江節を創始、吉原廓内でこれを流行らせて一躍、荻江節の祖となった。露友の名を弟子に譲り、自ら長谷川泰琳と名乗って引退した。長唄のメリヤス(長唄の一種で通常は歌舞伎下座音楽として物思いや愁嘆場などの無言の演技の際に叙情的効果を上げるために独吟又は両吟で演奏されるもの。もの静かな沈んだ曲調が多い)の作曲として「びんずる」が伝承されている(以上はウィキの「荻江露友」に拠る)。二代目荻江露友(?~寛政七(一七九五)年)は初代の門弟で姓は有田、通称は栄橘。安永年間(一七七二年~一七八〇年)に襲名したが、芸の上では初代より劣ったとある。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで天保一二(一八四一)年に八十二で亡くなっている。初代荻江が亡くなった天明七(一七八七)年だと静山は二十七歳で、二代目が襲名した安永の頃だと静山は十二~二十歳になり、静山の若き日には初代は既に「荻江」ではなく「長谷川」姓を名乗っていたわけで、本話のモデルは二代目の方であろう。

「禿童」「かぶろ/かむろ」と読む。太夫(たゆう)・天神など上位の遊女が側に置いて遣った六、七歳から十三、四歳くらいまでの遊女見習いの少女。

「さがなく」「さがなし」は人に不快な感じを与えるような性質・態度を表わす形容詞で、①性質がよくない。意地悪だ。②思慮がない。思いやりがない。③いたずらで手におえない。④口が悪い。下品だ。といった悪い意味しか持たない。ここでは③のお転婆の悪戯っ子という意味でとっておく。無論、「殊の外」綺麗な顔立ちでもあり、荻江にとってはどこか憎めない可愛いところがあったに違いない。いや、確かに……あった……

「戒」いましめ。ここは表面上は誓い約束ということだが、元来の「戒め」にはそのような意味はなく、寧ろ、原義である諭しの意、「しっかり気張れや!」という気持ちを含んだ表現と言えよう。因みに落語の「七草」には、まさに「七越」という名の吉原花魁が登場する。彼女は美人で芸も達者であるが、何故か客がつかない。御内所(ごないしょ:遊郭で主人の居間や帳場、また店の主人を指す。)が調べてみると、客の前で料理をぱくついてしまうという悪い癖があったことが発覚、彼女はつまみ食いしないという堅い誓いを守って名立たる人気の名妓となったという食いしん坊の花魁の話で、本話との強い通性が窺われる。

「仕着」しきせ。本来は、主人が使用人に季節に応じた衣服を与えること、また、その衣服を指す。おしきせ。ここも一回の三味線弾きが、将来、お前が大夫傾城の御身分になられた暁には儂(あっし)に仕着せを賜わっておくんない、と冗談で励ましつつ、洒落のめしたのである。

「三絃」さんげん。三味線のこと。

「出往」いでゆき。

「さがなりし」底本では右にママ注記があるが、全く問題ない。あの吉原中でもお転婆で手におえなかったはずの小娘だった彼女が、である。

「突出」つきだし。遊女の初店(初めて客をとる)。ここは最高位の大夫源氏名七越となっての、その突き出しの意。

「開筵」かいえん。元は仏家に於いて筵(むしろ)を敷いて座って釈迦の話を聴聞したことから法座を開くことをいうのを色町に諧謔したもの。

「長倡雛妓」ちゃうしやうすうぎ(ちょうしょうすうぎ)。「雛妓」は未だ一人前でない若い芸妓、半玉(はんぎょく)を指し、「長倡」はその「雛妓」の対語で相対的に年上の姐さん女郎をいう。

「上るなり」仕上がって参りました。

「廣蓋」ひろぶた。衣装箱の蓋。人に衣服などを与える際にこれにのせて差し出した。

「上衣」うはぎ。

「下衣」したごろも。上衣の下に着す下着。

「慙悔」ざんくわい。あやまちなどを恥じ悔いること。

「堀」ママ。掘る。誤字というより、当時は普通に通用された。

「周旋」ここはある件に就き、それを執り行うために働くこと、面倒をみることを指す。ここでは絢爛たる大夫七越突出の宴の一夜の一座の主客となったことをいう。

「慙愧」ざんき/ざんぎ。元は仏語で「慚」は自己に対して恥じる、「愧」は外に対してその気持ちを示すことを指す。自分の言動を反省し、恥ずかしく思うこと。

 

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