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2014/10/06

耳嚢 巻之九 書家雪山が事

 書家雪山が事

 

 雪山といへるは、何れの出生にや、孤獨のものにて、書は羲之(ぎし)・子昂(すがう)に元づきける也。廉澤(かうたく)なども師となせし由。しかるに隱逸を好みけるとなり。小網町にて名も聞へし米問屋のめし焚(たき)をなせるおやぢありしが、月に五七度づゝ、主人へ兼て願ひ置て、見苦敷(みぐるしき)衣類のうへえ羽織着て、晝頃より出、暮て歸る事あれど、用を缺く事もなく勤(つとめ)しゆゑ、主人幷(ならびに)手代(てだい)とも其心に任せけるが、あるとき風(ふ)と主人心附(こころづき)て、彼者暇(いと)ま日にいづれへ行(ゆく)やらんと、鄽(みせ)の者共へ尋(たづね)けれど誰(たれ)知る者なし。心ひそかに行(ゆく)かたを付見(つけみ)よと手代に申付置(まうしつけおき)しに、附出(つけいだ)し見れば、或る諸侯の屋舖(やしき)へ至るに裏門の番人ことごとく蹲踞(そんきよ)し、内玄關に至れば取次も念頃(ねんごろ)に禮をなして奧へ案内をなしけるを見屆(みとどけ)、彼(かの)手代立歸りしかじかの事語りけるに、大きに驚き猶(なほ)又右手代をして屋敷にて樣子承りければ、彼かの)人は雪山と云(いひ)て書學の達人にて、則(すなはち)主人も彼(かの)手跡(しゆせき)門弟なりと答へし由、あからさまに主人へ語りければ大きに驚き、彼(かの)飯焚(めしたき)を呼(よん)で、何故かゝる身分にて、鄙(いや)しき奉公なし給ふやと慇懇(ねんごろ)に尋(たづね)ければ、成程我等は雪山なり、年老(おい)て筆道(ひつだう)指南も面倒なり、世に立交(たちまぢはら)んも氏族(しぞく)親類もなければ無益なり、心安く世を過(すぎ)んは、市中かゝる所にあれば人の知る事もなければと思ひて、食焚(めしたき)をなしぬ、然れども、二三軒密(ひそか)に通ふ所は我(わが)心を能(よく)知れる御方にて、我(わが)意にまかせ交(まじは)り給ふゆゑまかるなりと申ければ、尤(もつとも)なる事ながら、かくし給ふを捨置(すてお)くは我(わが)名理(みやうり)よからじと、彼(かの)米や世話なして別室をしつらひ生涯を見屆けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。伴蒿蹊の名著「近世畸人伝」巻五(最後に参考として掲げた)にも取り上げられている反権力の綺人のエピソードである。

・「雪山」北島雪山(きたじませつざん/せっさん 寛永一三(一六三六)年~元禄一〇(一六九七)年)は江戸前期の書家で陽明学者。黄檗僧などから文徴明の書法を学び、唐様の書風の基礎を築いた。名は三立、雪山は幾つかあった号の一つ。肥後国生まれ。以下、ウィキの「北島雪山」によれば、寛永一三(一六三六)年、『肥後熊本藩の儒医北島宗宅の次男として生まれる。北島家は、豊後久住の大友一族志賀能郷を祖に持ち代々三立と名乗った。宗宅はその』十八代目に当たり、『やがて加藤家の侍医を務めたが加藤家が改易されてしまい、その後は細川家の藩医となった』。『幼い頃に日蓮宗妙永寺住持の日収上人より書と朱子学を学んだ。藩主の許可を得て父と共にたびたび長崎に遊学。黄檗僧の雪機定然・独立性易・即非如一や儒者愈立徳に影響を受け、文徴明や趙孟頫の書法を習得した。のちに張瑞図の書風を加える。また愈立徳に師事して陽明学を修めた』。寛文四(一六六四)年には熊本藩の儒医として仕官、寛文七年には『藩主細川綱利に命ぜられて『肥後国郡一統志』編纂に従事。これは江戸時代の最も早い地誌で、中世の肥後を研究する上で貴重な資料となっている』とある。ところが寛文一〇(一六七〇)年の江戸幕府による突然の陽明学禁止令(寛政の改革で主従関係の絶対性を説く朱子学が正学とされ、知行合一を理想とする陽明学は公的には禁ぜられた)によって『熊本藩を追放されてしまい、京都・江戸を流浪』、延宝五(一六七七)年には、『江戸に出て書家・陽明学者として知られるようになる。とりわけ唐様の書風は評判となり、雪山流を興した。のちに唐様を江戸に広めた細井広沢などが門人となっている。また林鵞峰・木下順庵・人見卜幽ら諸儒と交わた』。『雪山は豪放磊落で大酒豪、奇行が多く、権勢を嫌った』。先に示した「近世畸人伝」によると、『貧窮で雨漏りがする家の天井にタライを吊し、その下で書を行っていたという。またあるとき太守より中国で額字を作るための草案として大字の揮毫依頼されたが、大筆を所有せず簾の萱をもって筆としたという』。長崎丸山で没したとある。書に「草書唐詩五言屏風」「唐詩六曲屏風」「陶淵明詩巻」など。但し、底本の鈴木氏注で引く三村翁の注では、三村氏は、雪山に纏わる奇行奇談は大半は信じ難く、雪山真筆とされるものも多くは卑俗な書に過ぎぬとし、彼の実在自体を疑っている。グーグル画像検索「北島雪山」をリンクしておく。そこで出る盥を逆さまに天井からぶら下げた画像は後に掲げる「近世畸人伝」の挿絵(日文研データベース内にリンク)。

・「義之・子昂」東晋の書聖王羲之と初唐の傑出した詩人陳子昂。

・「廣澤」学者にして書家・篆刻家であった細井広沢。「耳嚢 巻之三 鈴森八幡烏石の事」で既注。

・「小網町」現在の中央区日本橋小網町。

・「風(ふ)と」は底本の編者ルビ。

・「慇懇」底本には右に『(慇懃)』という訂正注があるが、私はこれで「ねんごろ」と訓じておいた。

・「名理」底本には右に『(冥利)』と訂正注を附す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 書家雪山の事

 

 雪山(せつざん)と申すは、何処(いずこ)の出生かはよくは存ぜぬが、天涯孤独の者にして、書は王羲之(おうぎし)・陳子昂(ちんすがう)に私淑せるものと聴き及んで御座る。細井広沢(こうたく)なども彼を師となすとの由。

 かくなる能筆家なれども、隠逸を好んだとのこと。

 

 さても、日本橋小網町にて、名も知られた米問屋に雇われたる飯炊きを致す親爺があったと申す。

 この老人、月に五、七遍も、主人へあらかじめ願いおいて、見苦しき粗末なる衣類の上に羽織なんどを着して、昼頃より出でては、日も暮れになって帰る、ということが続いて御座った。

 されど、頼んだる用を忘るるということものぅ、まっこと、まめに勤めておったがゆえ、主人並びに手代(てだい)ともに、その望むがまま、任せて御座ったが、ある時、ふと、主人、かの親爺の仕儀、これ、不審なり、と気になり始め、

「……あの飯炊き爺(じじ)は、これ、暇(いとま)をとる毎に、一体、何処(いずこ)へ行参るものか?」

と、お店(たな)の者どもへ試みに訊ねてみたところが、これ、誰(たれ)一人として知る者がない。

「……何か……これ……悪しき癖にてもあるものか……一つ、今度、こっそりと後をつけて見届けて参れ。」

と、手代の者に申しつけおいた。

 すると暫く致いて、例の如く、出かけるさまなればこそ、手代が秘かにこの後をつけた。

 と……

 とある諸侯のお屋敷へと参ったかと見るに、裏門へと廻って御座った。

 すると、その番人どもが、これ、悉く、座って深々と頭を下げて挨拶致いたかと思うと、内玄関に至ったを覗き見れば、取り次ぎの武士もこれまた、懇ろに礼を成して、奧へと案内(あない)をなして御座った。

 これを見届けた上、その手代、立ち帰っては、今見たるところの奇体なる様をつぶさに主人に語った。

 さればこそ、主人も大きに驚き、その日は知らぬ振りを致いて、翌日になってより、また、かの手代をこっそりと遣わすと、屋敷の者にそれとのぅ、その親爺がことを聴いてみた。

 すると……

「……かの御仁は――雪山――と申されての、書道の達人にして、いやさ、当家主人(あるじ)も、かの御仁の、これ、書の門弟であらるる。」

と答えたによって、それを聴いたがまま、米問屋が主人(あるじ)へと語ったによって、米問屋の主人も、これ、またしても、大きに大きに驚き、直ちに、かの飯炊き爺(じじ)を呼び、

「……な、何ゆえ……か、かかる御身分にて……かくも賤しきご奉公なんど……これ、なされておらるるので御座るか?……」

と、いつもとはうって変って、ごくごく丁寧なる言葉遣いにて尋ねてみたところが、

「……そうで御座ったか。……なるほど……確かに。我らは――北山雪山――と申す者にして……さても……年老いて、書の道の指南も、これ、面倒。……世の人々のしがらみに、これ、今さら、たち交らわんことは……のぅ――我らには血の繋がったる一族も親類も最早一人として御座らねば、の。……いやさ――無益なることじゃ――と。……心静かに世を過ごさんには、市中のかくなる所にてあれば……これ、人に知らるることも、なし。……と、まあ、思うたによってのぅ。……かく、飯炊きの業(わざ)を、これ、成して御座るのじゃ。……然れども、二、三の所、これ、こっそりと通うておるところと申すは……我が心をよく知れる御方のところにして……我が意にまかせてうまく交じ合(おう)うて下さるるがゆえ……かくも、参上致いておりました……」

と申されたによって、米問屋主人(あるじ)、

「……そ、それは……確かに……もっともなることにては御座いますれど……さても……かく、なさっておらるることを、これ、存じ上げましたる上は……いや! それを捨おくくと申すこと、これ、我らが知れるところの凡夫の理(ことわ)りとしても……やはり! とてものこと、捨ておきますることは、これ、出来申しませぬ!……」

と申した、と聴く。

 この米問屋、それより、成し得る限りの世話をこの雪山になし、別室を設え、雪山が生涯を見届くる最期まで、確かに労わって御座った、とのことで御座る。

 

[やぶちゃん補説: 以下、伴蒿蹊「近世畸人伝」巻五から彼の条を引く。底本は森銑三校注岩波文庫版(一九四〇年刊)を用いた。〔 〕は割注。

 

    雪  山

 

雪山は北村三立といひしかども、世に號をもてしらる。肥後の人にして諸國に遊ぶ。文筆ありしかども、獨り書名高し。書法は漢僧雪機に學たり。初赤貧にして、屋破れ雨漏に、沐浴盤(たらひ)を高く釣り、其下に座して書を學べり。あるとき肥前長崎の橋下に一夜寐て、あくるあした、あたりの酒家に入て酒をのむ。あるじ其價を乞に、なしといふ。其家をとふにも、亦なしといへば、さらば何する人ぞととへば、もの書ものなり、とこたふるに、主もすねたるものにて、いで此ごろの閙(いそが)しきに、酒賣る日記書付給れ。今の酒の代(しろ)に充(あて)ん、といひしかば、もとよりさして志す所もなければ、日を重ねて止(とゞま)り、日毎に書つ。さるに漢法の草書なれば、いかにもよめざりしを、さすがに能書也とはしりけん、其人柄も無我なるを見て、深く信じ、遂に長崎に住しめけり。其後、隣國の大守、額字をもろこしへ書にやり給ふとて、其草案をかゝしめらるゝに、道人大なる筆を持たざれば、軒にかけし簾の萱をとりて、打ひしぎて書り。さて彼國に渡したるに、彼方(かしこ)にもかばかりの手筆なし、とてかへしければ、直に其大守の額となりぬ。さつまの國に到りし時、金五片賜らん、とこひつゝ、これをもて蜆(しゞみ)つみたる舟五六艘を買て、ことごとく海に離ち、吾はけふ仁を行へり、と悦びしとぞ。〔蜆を放つは、風狂の一事と人はいふべけれど、此翁佛乘を學びておもふ所あるか。蜀の法聚寺の僧、一夕門人にいへらく、門外に數萬人、鳥帽を著て貧道に向ひて命を救んことを乞。はやく出て見よ、と。門人急に門を開て見るに、十餘人蠡(さゞえ)を擔(になひ)て市にゆくをみる。盡く是を買て放つと、蜀記に見えたるよし。また微細なるものは命多し、殺べからずと、龍舒居士も説るよし、六如僧都の放生功德集に出し給へるにかなへり。私におもふに、官なきものは廣く仁を行ふことはかなふべからねば、大小をいはず、物の憂を救ふは、身に應じたる仁なるべし。〕此人生涯印章を持ず、書たるものに印を施したるなしとなむ。廣澤はこれが門人也。]

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