甲子夜話卷之一 12 大阪天川屋儀兵衞の事
12 大阪天川屋儀兵衞の事
吾師皆川子の話たるは、天川屋儀兵衞と淨瑠理本にある者は、其實は尼崎屋儀兵衞と云て、大阪の商估にして淺野内匠頭の用達なり。大石内藏助復讎の前、着込の鎖惟子を數多く造たることに預りしが、町人の武具用意と云風聞ありて、官の疑かゝり、呼出て吟味あれども陳じて言はず。後は拷問すれども言はず。終に其背をさきて鉛を流し入るに至れども白狀せず。あまりにきびしき拷問により、死せんとせしこと幾度も有しとぞ。然れども白狀せざれば、久しく囹圄に下り居しが、江戸にて復讎のことありと牢中にて聞及び、儀兵衞改めて申には、追追御吟味のこと白狀仕度となり。乃呼出て申口を聞に、その身、淺野家數代の出入にて、厚恩蒙し者なり。彼家斷絶の後、大石格別に目をかけ、一大事を某に申含、江戸にては人目有とて、此地にて密に鎖惟子を造りたり。全く公儀への野心に非ず。はや復讎成就の上は、何樣にも御仕置奉ㇾ願と云ける。之を聞て、奉行を始め其場に有あふ人々、皆涙を流さゞるは無かりしとなり。因て赦されて獄を出て、家に歸り、殊に長壽にて、年九十許にて沒せしとぞ。時人往事を語る序には、是見られよ迚、肌を脱ぐに、背に鉛の殘りたるもの、一星二星づゝ肉を出て有り。觀るもの身毛だつやうにありとなり。
[やぶちゃん注:「皆川子」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)。参照したウィキの「皆川淇園」によれば、多くの藩主に賓師として招かれ、京都に家塾を開き、門人は三千人を超えたという。晩年の文化三(一八〇六)年には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。京極の阿弥陀寺に葬られたが、その墓誌は静山が文を製している。因みに赤穂浪士の討ち入りは元禄一五(一七〇三)年(十二月十四日)、静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)。
「尼崎屋儀兵衞」個人ブログ「遊心六中記」の「探訪 京の都(下京)の史跡めぐり 4 京都大神宮、天野屋利兵衛、五条大橋、河原院跡」によれば、モデルは呉服商から備前岡山藩蔵元へと身を起こした天野屋利兵衛(理兵衛とも)という人物らしいが、相当に潤色されいるらしい。
「商估」は「しやうこ(しょうこ)」と読み、商人・商売屋の意。]
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