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2014/10/03

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 93 大垣入り

本日二〇一四年十月 三日(当年の陰暦では九月十日)

   元禄二年八月二十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月 三日

あまり理解されているとは思われないので最初に述べおくが、芭蕉が「奥の細道」の旅の終点である大垣に到着した確かな日時は、現在でも特定されておらず、八月下旬という如何にも大まかな推定がなされているに過ぎない(諸家の研究では八月二十八日(一六八九年十月十一日)までには大垣入りしたとされるのみ)。なお、ここからは大垣から迎えに来ていた門人忌部(八十村)路通が案内役となっおり、やはり独り旅ではない(因みに路通は曾良決定以前の「奥の細道」の有力な同行候補であったと考えられている)。優れた「奥の細道」追体験サイトである尺取虫氏の「奥の細道歩き旅」の敦賀~木之本」では、芭蕉は敦賀を十八日か十九日に旅立ったものと考えられるとあり(私もそれを支持する。芭蕉が「奥の細道」の旅の最後の感懐を、だらだらと二十七、八日くんだりまで延ばしたとは到底、考えられぬからである)、また、敦賀―大垣間は凡そ八十キロメートルの距離で、従来の芭蕉のペースならば一泊二日の行程ではあるが、『芭蕉は「駒にたすけられて」と書いているように、旅も終わりに近づき疲れもたまっていたのだろう。木之本、春照で宿泊する』二泊三日の『ゆったりとした行程にしたようだ』と記しておられることから、今回、私は尺取虫氏に全面的に賛同し、芭蕉の敦賀発を十八日とし、本日二十日を芭蕉大垣入りと特定することとした。なお、この間に現存する句作はない。というよりも現在知られる発句は実は、ずっと後の八月二十八日(公開予定十月十一日)の前書クレジットを持つ「鳩の聲身に入(しみ)わたる岩戸哉」まで、ない(当然、私の「奥の細道」シンクロニティの発句も、そこまで永くお預けとなる)。

 以下、通行本の「奥の細道」の最終段すべてを示す(最後の一文と最終句「蛤の蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ」は当該日たる九月六日(公開予定十月十八日)で再度示して注を附す)。

 

 露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。

 

[やぶちゃん注:「此みなと」敦賀の湊。

「越人も馬をとばせて」蕉門の越智越人は名古屋の染物業を営む商人であった。

「如行」近藤氏。通称は源大夫。元大垣藩士。大垣の最初の蕉門門人として当地では重きを成した。芭蕉は先行する「野ざらし紀行」の旅の際にも彼の元に立ち寄っている。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の近藤如行によれば、『如行は早くに武士を捨て、僧になって師匠同様旅をした』とある。

「前川子」津田前川。大垣藩士。大垣蕉門の一人。

「荊口父子」「荊口父」とは宮崎太左衛門のことで、荊口は彼の俳号。大垣藩御広間番の百石扶持藩士であった。「子」は太左衛門の此筋(しきん)・千川(せんせん)・文鳥と号した三人の息子たちを指し、一家で蕉門に入っていた。

 ここより後の語注は後日再掲の際に注する。

 

 以下、自筆本を示す。

   *

露通もこのみなと迄出むかひてみのゝ

国へと伴ふ駒をはやめて大垣の

庄に入は曽良も伊勢よりかけ合

越人も馬をとはせて如行か家に

入集る前川子荊口父子其外

したしき人々日夜とふらひてふた

たひ蘇生のものにあふかことく且

          の

よろこひ且なけきて旅ものうさ

              も

いまたやまさるに長月六日になれは

伊勢の遷宮おかまんと又ふねに

乘て

  蛤のふたみに別行 秋 そ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇駒をはやめて → ●駒に助けられて

○かけ合    → ●來たり合ひ

○ふたたひ蘇生のものにあふかことく

 ↓

●蘇生の者に會ふがごとく

○且よろこひ且なけきて旅のものうさもいまたやまさるに

 ↓

●且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに

 

■やぶちゃんの呟き

 通行本は見ての通り、クライマックスを演出して、ブレイクしてあるのだが、私は実はこの自筆本の方が遙かに優れた演出であると思う。

 現在知られるそれは演劇的であるのに対し、文を区切らずに連続した自筆本はある意味、映像芸術的な余韻を与えて余りあると強く感じるからである。

 今回のシンクロニティで私は、芭蕉にとっての「奥の細道」の旅は、文学的虚構的である以前に能楽的戯曲的でありし、しかもそれ以上に音楽的でなくてはならないと感じているからである。

 交響詩「奥の細道」のコーダは、ぶつぶつと切れたり、ざっと幕が引かれたりしては、実は興を殺ぐのだ。

 スラーの音符と、ゆっくりとしたフェイド・アウトで、その幕は閉じられねばならぬ――]

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