甲子夜話卷之一 15 平戸の社人、雨乞の事
15 平戸の社人、雨乞の事
予が封内のことなりき。一年旱して苗を育せず。因て社人に命じて雨乞を爲るに驗なし。憎も亦同じ。此時下(シタ)社家の中に、坂本但馬〔名忘〕と云るあり。かく雩祭あれど驗なきは本意なきこと也。冀ば某に命ぜられよと云。乃その請所に任す。坂本乃舟に乘て、廣瀨と云所に抵り、己一人留り、乘たる舟も伴へる人も還し畢て、某所に神案を構へ、其前の石上に安坐し〔此廣瀨と云るは、平戸の城下近き海中なれど、朝鮮に向へる海にて、其處は小き瀨なり。潮滿るときは其瀨隱れ、干れば顯る。洋海に臨たればいつも浪高く寄せ來り、風あれば雪を積み霧の蔽ふが如し〕、もとより覺悟せしと見えて、安坐せる膝の上に大なる石を重積て、浮上らざる設をして祓詞を連詞す。諸人陸より望居るに、やゝありて潮盈來り、次第に坂本が坐に打寄せ、漸々に膝より腹に及び胸に至る。人々いかにと見る間にはや其頷に至れり。今にも頭を沒しなんやと見る。人堅唾を嚥む。其とき天俄にかき曇り、大雨盆を傾く。誠心の感格は不可思議なるものなり。
■やぶちゃんの呟き
「廣瀨」平戸瀬戸の北口にある北東から南東に伸びる細長い岩礁性の小島である広瀬島であろう。釣サイトによればこの島の周辺は潮流も速い。
「雩祭」底本は「うさい」と音で読んでいる。「雩」は雨乞い・雨乞いの祭祀・虹の意を持つ。「説文解字」巻十一には「夏の祭りなり。赤帝に樂し、以つて甘雨を祈るなり。」とある。
「抵り」「いたり」と読む。
「神案」の「案」は物を乗せる机・台であるから、神棚。
「祓詞」「はらへのことば」と読む。