日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の成人の扁平脛骨について
先日大森の貝墟へ行った時、私は人間の脛骨の大きな破片を発見した。これはブロカの板状脛骨に於て指示された如く、六〇の指数を以て側面に平べったくなっていた。現在の日本人の脛骨の指数は、我我のと同じく七六である。これによって、堆積物が、かなり古いことが知られる。
[やぶちゃん注:「ブロカ」フランスの医師・解剖学者で人類学者ピエール・ポール・ブローカ(Pierre Paul Broca 一八二四年~一八八〇年)。彼に因んで名づけられた前頭葉の言語野ブローカ中枢の、あのブローカである。彼は頭骨人体測定学(形質人類学)を発展させたが、そこで彼が示した骨の形質・突起に関わる指数の一つが「ブロカ」を指数単位として用いられている。ダウンロード可能な考古学の専門論文を管見すると、発掘された古代人の頭骨の細部比較に、このタイプ(外後頭隆起ブロカⅡやⅣ等)がかなり盛んに用いられているのが分かる。
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以下、少々長い注になるので改行を施す。
「板状脛骨」原文は“platycnemic tibia”。現在は「扁平脛骨」と和訳されるようである。これはヒトの脛骨の一形状を表現するもので、骨体が前後に長く扁平なものを指す。脛骨切断面の骨体中央部左右
(横) 径と,前後(矢状)径との百分率(脛骨扁平示数)をとったもので、扁平の度合いを表わす。この特徴は末期のネアンデルタール人類に現われ始め、後期旧石器時代から新石器時代の新人類に最もよくみられ、逆に現代人になると殆ど見られないという特徴を持つ(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
東京大学大学院公式サイト内の近藤修生物科学専攻准教授の「モースの大森貝塚発掘原図」に、大森貝塚のモースの発掘に関わる記載があり、そこで近藤氏は、『この発掘調査が日本の人類学・考古学に大きく貢献したことは間違いない。本邦初の貝塚調査であるという学史的な意味でも重要であるが,それよりも,当時の日本人がほとんど考えてもみなかったような有史以前の石器時代人の生活の痕跡が,東京の郊外に残されていたという事実を内外に明らかにしたという点で,大きな意義をもっていた』とされ、『モースが大森貝塚で発見した人骨はすべて断片的な散乱人骨であったが、彼はそのなかの一片の脛骨の破片の形に注目した。それは横断面の形が現代人のように三角形ではなく、前後方向に長く幅がやや狭いという特徴をもっていた(図[やぶちゃん注:リンク先参照。])。これは「扁平脛骨」とよばれる特徴で、当時、北米の貝塚人骨やヨーロッパの先史時代の人骨によく見られる特徴として知られていた。いまでは縄文人の骨格の特徴のひとつとして定着している。彼はまた、貝塚の中での人骨の出土状態がまったく不規則であり、シカやイノシシの骨と一緒に、しかも割れた状態で見つかること、中には傷のついたものもあることに注意し、アメリカインディアンの場合などを例証として、食人の風習があったのではないかと考えた。ただ、こういう風習が日本人についてもアイヌについても知られていなかったため、大森貝塚を残した種族は,日本人でもアイヌでもない、未知の種族であった可能性がある、と述べている。これは、今日までつながる、「日本人の起源」に関する議論へと展開していった』と述べておられる(コンマを読点に変更)。この脛骨断面の比較は東京大学創立百二十周年記念東京大学展「学問の過去・現在・未来 第二部 精神のエクスペディシオン」内の論文、同大学院理学系研究科木村賛氏の「アムッド人とその人類進化上の意義」の中にある[挿図9]の『脛骨栄養孔位断面図』(Endo and Kimura 1970, Trinkaus 1983 改写)が非常に分かり易い(但し、解説では、ネアンデルタールなどの旧人が『前後径と比べて横幅の広い断面をも』ち、クロマニヨンら新人は『前後に長く横方向から見て扁平な断面をもつ』と、「扁平」という表現が異方向から成されているので注意を要する)。
岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」(一九八三年刊)によれば、大森貝塚で発見された脛骨は一本だけで、発掘した人骨リスト(全標本数十九。ちなみに他の内訳は上腕骨破片三・尺骨破片二・橈骨破片一・大腿骨破片八(内、女か子供のものと推定されもの三)・右腓骨破片一・右第五中足骨破片一・左下顎骨一・左頭頂骨一)によれば、
成人右脛骨 破片長百三十五ミリメートル 骨幹上部部分
である。そうして、この脛骨が特に調査され、「大森貝塚」で「扁平な脛骨」として一章を成している。非常に長いが、モース本人の記述本文の内容を学術的(当時のレベルでの)に本人の記載で補完するものであるので、以下にどうしても引用したい。著作権(翻訳権)に抵触するということであれば取り下げる用意があるが、私は、それは英語のろくに出来ない私のような人間に対する――アカデミズムの猥雑なる智の差別である――と思う人種であると述べておく。また、ネット上には同訳書を私と同程度に引用されているアカデミストがいる。私が著作権侵害ならば、またその方も同様ということになるであろう(勘違いして貰っては困るが、私はその方のサイトを贔屓にしている)。なお、図については文化庁が保護期間満了の絵画的平板物をそのまま平板に写したものに対しては著作権は生じないと断じている。まず、附図を掲げておく。[ ]で示したキャプションも訳文のものである。
《引用開始》
[扁平脛骨の横断面]
[挿図1武蔵大森] [挿図2肥後大野村]
扁平な脛骨
人の脛骨の破片を特に調べた。大昔の人の脛骨が現代人のそれと比較して著しい偏差を示すからである。
この偏差とは、脛骨骨幹の横方向の扁平をいう。原始人ではこの変形が広く認められるため、新しい学術上の名称が作られることとなった。横方向に扁平なこの脛骨は扁平脛骨という名で知られている。
これは、ヨーロッパの大昔の塚や洞穴でしばしば認められるものであるが、ワイマン教授はケンタッキー・テネシー・カリフォルニア・フロリダ・ラブラドルその他の土地の大昔の塚でそれを観察している。また、ヘンリー・ギルマン氏はミシガンの貝塚で著しく扁平な脛骨を発見した。
ワイマン教授の観察によると、脛骨の扁平さは種族的な特徴でなく、先史時代の全種族に共通する現象らしい。
大森における発掘では、幸い他の人骨とともに脛骨の骨幹部分をひとつ得ることができた。
脛骨には人によって違いがあるから、単一の例をここでしめしてもほとんど意味がない。しかし、その比率の計測値をかかげてワイマンがフロリダの貝塚の報告でしめした数値とくらべると興味深いだろう。前後の径を一・〇〇とすると、横の径は白人(現代人)一二例では〇・七〇、フロリダの貝塚出土の一二例では〇・六四、ケンタッキーの貝塚出土の七例では○・六三、大森貝塚の一例では〇・六二となる。
フロリダの貝塚では〇・五九という低い値をしめすものも別にあったし、ギルマン氏はミシガン州ルージュ川畔の一月壕で〇・四八という極端な扁平度をもつ脛骨を発見している。この後者の脛骨はブロカによる有名なクロマニヨンの脛骨の値をはるかにしのいでいる。大森例は〇・六二の値をしめし、扁平脛骨の好例とみてよい。任意に選んで計測した現代日本人九人の脛骨の平均値は〇・七四、その最小値は〇・六八四で、これと較べると、大森例はいちじるしく扁平である。
脛骨扁平は、高等猿類にも特徴的である。しかし、ワイマン教授が正しく述べているように、絶滅した猿に似た性格をしめすものは、脛骨の横方向の扁平というよりむしろ角の丸味と骨幹の前方への屈曲とである。大森の脛骨はこの性質を著しくもっている。
この特徴は横断面扁平とともに大森の骨にいっそう大きな重要性を与えており、それとともにみいだされた遺物がかなり古いことの一証拠と見なしてよい。
このようなことを書いてのち、私は肥後の国の広大な一貝塚を調査した。
哺乳類の骨は多くはなかったが、四〇片ほどみいだし、うち半数以上は人骨だった。人骨はすべて割れており、堆積層のあちこちに無秩序に散乱していた。幸いにも脛骨の破片も若干みつかった。これらはいずれも扁平である。その一例は〇・五二という数値をしめす極度の扁平さでこれまで記録されたもののうち、最低の一例である。
同貝塚の人骨は、筋肉付着面を形成する骨性隆線の荒さと突出の状態が著しい。
この貝塚とその土器その他についての記述は、将来紀要の一冊に発表する予定である。
《引用終了》
なお、最後から三つ前の段落中の、「その一例は〇・五二という数値をしめす極度の扁平さでこれまで記熟されたもののうち、最低の一例である。」の「〇・五二」については、底本編者が『原文では五〇・二とあるがミスプリントだろう』と注を附され、以上のように訂正されているので注意されたい。
因みに、モースの主張したプレ・アイヌであったとする大森貝塚人の食人風習(「大森貝塚」に一章を設けて詳述。これは明治一二(一八七九)年一月十五日に東京での帝国大学生物学会で発表され、剃年一月十八地附『トウキョウ・タイムズ』に原稿が掲載されたもの)についてもう少し細かく述べると、発掘した人骨には人為的に筋肉を引き剥がそうとする場合に相応の傷が生ずると推定される筋肉の附着箇所に著しい削痕や切創痕(一部には有意に深い切り込みがある)があること、割れ方の中には明確に人為的と観察されるものがあることを挙げ、これらがフロリダの貝塚で北米インディアンの食人風習を証明したジェフリー・ワイマン(ハーヴァード大学解剖学教授で考古学者でもあり、アメリカに於ける最初の貝塚発掘をした研究者としても知られ、モースは彼弟子として発掘に同行してもいた。ここは磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」三〇~三一頁に拠る)としてモースのの推断と一致するとある。またモースは最後に日本の南部の貝塚(熊本の当尾(とうのお)貝塚を指す)でも食人風習の顕著な証拠頗る多く発見したとも述べている(前掲「扁平な脛骨」引用の「肥後国の広大な一貝塚」と同じ。ここまでは岩波文庫版「大森貝塚」の訳を参考に概括した)。現在、この貝塚人の食人が一般的であったという説は否定されている。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『しかし食人の形跡がまったく無いわけでもなく、まれには儀礼的な食人もあったと』する(西岡秀雄・『史誌』十三号・一九八〇年)。但し、『モースたちが大森貝塚で発掘した人骨を検討した人類学者鈴木尚氏によると、切創や削痕と断定できるものはな』く(鈴木尚『人類学雑誌』五十三巻・一九三五年)、『最近の現地再発掘で出土した人骨にも食人の跡は認められていない。百年前は古代人の埋葬習慣などの詳細がわかっていなかったし、加えてモースには貝塚研究での恩師ワイマンの食人説が強い先入観になっていたから、それに従ったというところだろう』と述べておられる。
私は個人的に儀礼的乃至呪術的食人(死者の霊力や性格などを吸収したり、愛情表現から死者と同一化したり、邪悪な霊の骸への進入を許さないために、死んだ近親や敵などを食べるケース)を野蛮とは考えない。本邦の我々の祖先が食人をしていたとしても私は何ら、違和感を感じない。寧ろ私は近現代に於ける戦争による大量殺戮の方が遙かに換喩的にカニバリックで救いようがないほどに野蛮な行為であると考える人種なのであるが、ともかく、この本文ではモースは食人の問題に触れていないので、この問題はここでは、これまでとしておく。]
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