甲子夜話卷之一 6 松平定信、土浦侯死去のとき判元見屆之挨拶の事
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松平定信〔越中守〕在職の時、土浦侯卒す〔土屋但馬守。奏者番〕。世を擧て病死に非と風聞す。侯、跡目願のとき、判元見屆として大目付大屋遠江守往べき旨を定信申渡す。この大屋はもと田安殿の家老を勤て、定信少時より親く思はれければ、その時に臨て、定信に私語して曰、土屋氏專ら變死の聞あり。若其こと實ならば、奈何取計べき、と云しかば、定信色を厲して曰、御役にて判元見屆けらるべしと申達するに、卒忽の口上なり。實否は參りて見屆らるべし、とありけれは、大屋大に失言を悔悟し、判元見屆別事なく返り申上しとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「土浦侯卒す」定信が老中時代で土屋土浦家の当主で奏者番で亡くなった人物とすると、寛政二(一七九〇)年五月十二日に享年二十三歳で病没した第六代藩主土屋泰直のことと考えられるが、彼は能登守で但馬守ではない(彼以前の藩主には但馬守がいるが、それらの没年では定信が老中になっていない)。次の第七代(第四代藩主土屋篤直三男)は但馬守であるが、彼の死んだ享和三(一八〇三)年八月十二日(享年三十五)では定信はもう老中を辞めている。
「大屋遠江守」大屋正薫(読み不詳。まさしげ・まさただ・まさのぶ・まさひで・まさふさ・まさゆき等が考えられる)なる人物かと思われる。「泰平年表」の「天明七年」の条に定信と並んで「大目付遠江守」とあり、竹内秀雄氏の注(続群書類従完成会一九七九年刊)に『(正薫)』と名が出ている。
「判元見屆」「はんもとみとどけ」と読む。ウィキの「判元見届」から引く。『江戸時代に武家から末期養子の申請が出された際に、江戸幕府から役人が派遣されて行われる確認作業のこと。申請者である危篤の当主(判元)の生存を見届けるとともに、願書に不審な点がないかを確認するために行われる。元来は、末期養子の届出に押判しなければならない当主が既に死亡していて、押印が偽造されている事態を防止するために行われるものである』。『大名家の場合には大目付が、旗本・御家人の場合には所属する頭・支配(不在の場合には目付が代行)が、当主および養子予定者の親族縁戚、また当主の同役などが立ち会った上で確認が行われ、旗本・御家人の場合には所属する頭・支配(目付)によって改めて末期養子届が作成され、併せて老中・若年寄に提出された』。『実際には時代が進むにつれて形骸化しており、明らかに当主が死亡している場合でも、遺体を屏風の奥に寝かせて危篤・昏睡状態という体にし、確認役は形式的に声をかけるだけの生存確認が行われたり、相当に融通の利いた運用がなされるようになっていた』。
「厲して」「なして」と訓ずる。
「卒忽」「そつこつ」と読む。粗忽に同じ。]
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