萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅰ)
[やぶちゃん注:以下は一九八九年二月刊の筑摩書房版萩原朔太郎全集補巻の「短歌」パートにある『書簡より』から。これらの電子化を以って現在知られる萩原朔太郎の短歌の内、殆んど総ての電子化を終了することとなる。]
いめに見しおほつ鯨の背にのりて九十九里はま今行くらんか
その松原都に何んのえにしありてふとのまどひの我たゆたしむ
[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年八月二日消印萩原栄次宛写真葉書より。萩原栄次は従兄(医師であった父密蔵の兄で萩原家医家十一代目萩原玄碩の長男。後に萩原主家十二代目となった。短歌をよくし、クリスチャンでもあったことから、若き日の朔太郎をそちらへよく導いた。朔太郎より八つ年上)。二首の前に『只今靑松館へ到着仕り候』、末尾に『八月朔日』とある。投函地は底本所収の当該書簡によれば『千葉縣下一ノ宮在靑松館』。この避暑行は既刊全集の当該年には記載がない(『夏 一家で水戸海岸平磯へ避暑』とはある。なお、この直前の七月三十日消印の同人宛書簡に『明日九十九里が濱へ出發すべく候』とある)。古絵葉書販売サイト内にあった同館の絵葉書をリンクしておく(同宛名面画像も)。当時、朔太郎満十五歳。因みにここは後の大正五(一九一六)年に大学卒業直後の芥川龍之介(「芋粥」脱稿直後で二十四歳)が久米正雄と避暑に訪れた「一宮館」の近くである。
「いめ」は「夢」の上代語で「寝目(いめ)」。「ゆめ」は平安以降に用いられた。校訂本文は「おほつ」を「おほき」とする。採らない。]
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