「甲子夜話」電子化始動 甲子夜話卷之一 1~5
昨日の京の妙満寺に残存する例の能「道成寺」の実際の鐘に纏わる、鐘がそこへ移された経緯を分かり易く記した「道成寺鐘今在妙満寺和解略縁起」(宝暦九(一七五九)年妙満寺前住持老蚕冬映筆)なるものが、松浦静山の「甲子夜話」にあるということ、今朝も「甲子夜話」の目次を全冊管見したのだが第一が標題も不明なために未だに見つからない。……いや、これは啓示である!
……僕は実は「耳嚢」の全電子化注釈を終えたら、「甲子夜話」のそれに取り掛かる予定であった。しかし芭蕉の「奥の細道」シンクロニティに入れ込んだ結果、本来、本年中に終わらせるはずであった「耳嚢」のそれは来年にずれ込む仕儀となった。
……静山が怒っているのだ!
さればこそ、ともかくも本文のみの電子化をブログ・カテゴリ「甲子夜話」でおっぱじめることと決意した。
……正篇百巻、続篇百巻、第三篇七十八巻――底本とする東洋文庫で全二十冊……
気が遠くなる、わけには、ゆかない……
一気に本文から入る。底本は中村幸彦・中野三敏校訂になる一九七七年刊(「甲子夜話1」の奥付)の平凡社東洋文庫版を用いるが、私のポリシーにより、漢字は恣意的に正字化する。踊り字「〱」「〲」は正字化し、底本に従い、二行割注は〔 〕《卷之二以降、勘違いして【 】としてしまっているので御容赦あれ。2016年11月追記》、欄外注記は( )とする。各巻の通し番号は編者によるものであるが、何かと便利なのでアラビア数字で頭に打ち、目録にある標題を記した後に改行して本文を始めることにする。多く振られてある編者のルビも編集権侵害をしないために振らない。但し、カタカナで振られた静山のそれはカタカナで( )で本文同ポイントで組み込んだ(そもそも原本は漢字カタカナ書きでひらがなに直している時点で編集権は発生しているとも言えるが、僕のは漢字を正字化することでそれと差別化可能であると思う。しかもそれで原本により近づくものでもあると私は考えているのである)。ともかくも進捗速度を高めるため、当分は本文電子化のみとする(将来的には「耳嚢」に準じつつ、せめて注は完備したいと思っているが、しかし、そこまで命が持つかどうかは保証の限りでない)。但し、どうしても一言言いたくなるものもあるには違いない。なるべく立ち止まらぬ程度には呟くやも知れぬ……
なお、肥前国平戸藩第九代藩主であった松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。
では……参ろうか……静山殿……
*
甲子夜話卷之一
1
故松平豆州〔信明〕老職勤られ候中、何年の事にか、兩番衆の中弓削田新右衞門と云る人、事に因て番頭石河壱岐守宅に於て切腹仰付らる。其節檢使として往たる御目付某の語たると聞しは、彼御目付、檢使畢りし屆とて、先づ若年寄某の宅に往たるに、時及二夜陰一たれば、もとより門も鎖たるに、此事申達ぬれば、門内狼狽せし體にて、門外に待こと良久して開門す。玄關の體も、俄に燭をつけ抔せし有樣にて有しが、入て其狀を用人に申て出。是より豆州の宅へ往途中にて、若年寄さへ如シㇾ斯ノ、定て待こと久かるべしと思て彼門に至れば、直に開門す。玄關の中燭臺を陳ね取次侍並居たり。夫より謁を通れは、即用人出、豆州對面せらる。其體かねて待居たると覺しく、乃檢死の狀を申述たれば、是非もなきことにとの、豆州挨拶なり。因て御目付も感入て退出せしとぞ。この事諸御旗本中聞傳て、普第の御家人、一家斷絶することは、罪あるものさへ、かくまで心留らるゝことよとて、實に忝き心得と申さぬ者はなかりき。
■やぶちゃんの呟き
老中松平信明については後掲する「8 老中に行き逢ひし折りの禮の事」の私の注を参照されたい。
2
德廟、郊外御成のとき、農家に入せ給ひ暫く御憩の時、其家の佛だんの下の戸棚を開き見玉ふに、菜疏の種を紙袋に納て貯置たるを、彼是と出して御覽あり。頓て出させ玉時、家の主、戸外に跪伏して居たるに、上意ありしは、戸棚の中の種物を見しが、雜はせぬぞとの仰なり。農あつと平伏したり。扈從の人、上旨を知もの無りしとぞ。種子を混合することは、農の最忌ところ、德廟の下情に通じ玉ふことかくの如し。
■やぶちゃんの呟き
「有德廟」徳川吉宗。有徳院殿贈正一位大相国の戒名から。以降本作では略して「德廟」とも出るが、家康も「德廟」と呼ぶので注意が必要。
「雜はせぬぞ」「まぜはせぬぞ」と読む。
3 同御成のとき、御用御取次へ上意幷御答の事
德廟の御時、有馬備後守か加納遠江守か、始て御用御取次に命ぜられての翌日、何方へか御成ありしとき、御玄關の前に其人先ちて御駕に傍(ソヒ)て在けるに、高らかなる御聲にて、其名を呼玉ひ、上意には、其方昨日用取次を申付たり。勤方いかゞ心得居るやとなり。某答奉るは、御用の旨は、其通り人へ申達し、下より言上仕る旨は、其通言上仕ると心得居候と、高音に申せしかば、夫にてよいと、又大音に仰給ふ。扈從の輩ら群居たるに、普く其御問答を聞奉りたり。時に人々竊に言しは、上の御心は、彼勤役の旨を、人に普く知ら便め給はんとの御心にや。又上下の言を通ずるまでにて、私に君側の威を振ふことなきを示し玉ふか、其英邁なる御樣子、感ぜぬものはなかりしとぞ。
4
松平樂翁老職のとき〔松平越中守定信、田安黄門宗武卿の三子〕大奧の女官、諛へる心より拵けるにや、種姫君へ〔種姫君は宗武卿の御養女、明廟の御養女とならる〕御目見有んとの由を達す。越中守答るには、此事御續がらを以てならば、兄隱岐守も〔松山候、松平定國、宗武卿の二男〕同く御目見仰付らるべし。又當役の故を以てならば、同列一同なるべし、と言れければ、其沙汰止しとなり。
■やぶちゃんの呟き
「諛へる」は「へつらへる」、「明廟」は徳川家治。「又
5 神祖の御坐所は牀卑く作らせらるゝ事
何の時か武田勝賴、神祖を密に害し奉らんとて、忍者を遣て御坐所の牀下に入て刺通し來れと命ず。そのもの頓て還來る。勝賴いかに仕遂たりやと問に、忍者曰、牀下まで忍び入りしが、ゆかひくゝして刀をつかふことならず。因て空く還れりと答しとぞ。一日、述齋林氏に語たれば、林氏の曰、神祖駿城へ移り玉はんとて、造作命ぜられしとき、ゆかの高さは、女子の上り下り自由になる程にすべし。さあれば間者ゆか下にて、はたらくこと出來ぬものよと、上意ありしと云。
■やぶちゃんの呟き
「神祖」家康。
「頓て」は「やがて」と読む。
「述齋林氏」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。
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