『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 保壽院廢蹟/報恩寺廢蹟
●保壽院廢蹟
報恩寺舊蹟の西南にあり。應安元年。基氏の母淸公夫人の遺命により。西御門の別殿を保壽院と名け。菩提所となし。僧義堂を請(しやう)して開山とすと云ふ。
[やぶちゃん注:「保壽院」は「ほうじゅいん」と読む。上杉禅秀が最初の謀反の旗揚げをした寺である。後に瑞泉寺塔頭となっていたようであるが、廃寺の時期は未詳(「鎌倉廃寺事典」に拠る)。
「基氏の母淸公夫人」基氏の生母清江夫人は赤橋守時の娘で幕府最後の執権北条宗時の妹。応安元(一三六八)年九月二十九日没。
「義堂」夢窓疎石の門弟義堂周信。延文四・正平一四(一三五九)年に関東公方足利基氏の招請に応ずる形で下向し、以後約二十年に亙って鎌倉で活動、基氏・氏満父子の信任を得、上杉朝房・能憲の帰依を受ける一方、瑞泉寺住持などを経て鎌倉叢林における指導的立場を確立していた。この間、大覚・仏光両門徒の抗争が円覚寺の大火として噴出するなどの事件に遭遇、その対応に苦悩する姿が同人の日記「空華日用工夫略集」から読みとれる(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。本寺と次の報恩寺の一次資料記載はこの日記に基づく。]
●報恩寺廢蹟
西御門の西の谷にあり。南陽山報恩護國寺と號せし禪刹にて。應安四年十月。上杉兵部大輔能憲(よしのり)の起立なり。僧義堂を請して開山始祖となせり。永和四年四月十七日。上杉能憲卒す〔法名報恩寺道諲敬堂〕遺骸を當寺に送て荼毘し其骨を收む。五月遺言により舊第を域内に移して塔庵(たうあん)とす。八月塔庵成て。又安房守憲方其傍(かたはら)に己か壽塔を經營す。其後何れの頃廢寺となししや詳ならす。
[やぶちゃん注:前出の義堂周信が開山で、彼は応安五(一三七二)年六月十五日にここに雲臥庵を結んで住んだ。参照した「鎌倉廃寺事典」によれば、永享一一(一四三九)年頃までの存立が認められるが、その後『罹災数回に及びついに廃亡』したとある。『現在の西御門の來仰寺にある地蔵菩薩像はもと』この『報恩寺のものであった』とある。
「上杉兵部大輔能憲」関東管領。
「永和四年」西暦一三七八年。
「道諲敬堂」は「どういんけいどう」と読む。
「安房守憲方」上杉憲方(のりまさ/のりかた)。能憲の弟で臨終の兄から家督を譲られていた。長兄逝去の一年後の天授五・康暦元(一三七九)年三月七日、次兄で関東管領を継いでいた憲春が、康暦の政変に乗じて攻め上がろうとする鎌倉公方足利氏満に対し、諌死した後、関東管領に任ぜられている。墓所は自身が鎌倉に建立した明月院で、法号は明月院天樹道合(以上はウィキの「上杉憲方」に拠る)。
「壽塔」(じゅとう)生前に建ておく塔婆類をいう。]