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2014/10/11

耳嚢 巻之九 忿心其身を登揚せる事

 忿心其身を登揚せる事

 

 馬場嘉平次と云(いへ)る者あり。親は紀州の御庶流松平攝津守家の者成(なり)しが、いかなる譯かありけん浪人して、親は一生浪々してあり、永々(ながなが)のたつきなきゆゑ研屋(とぎや)をなして、嘉平次も引續(ひきつづき)研屋はなしけるが、諸武家よりのあつらへもの注文書、又は手紙にも、嘉平次どのと、輕きかたまでしるし越しけるを殘念に思ひ、何卒以前の武士に立歸り度(たし)とて、町人の身分ながら劔術は天心流、柔術はきとう流を稽古し、專ら是に心をゆだねけるゆゑ、甚(はなはだ)困窮なして表店(おもてだな)を仕まひ裏店に入りて母に仕へ、尚かはらず武藝を勵(はげみ)、外(ほか)流儀をも立寄(たちより)て論じ、又は立合(たちあひ)の稽古等致(いたし)けれど、我(わが)稽古せる天心流きとう流は不及申(まうすにおよばず)、いづれの流儀も不面白(おもしろからず)と思ひければ、兼て心安く立入(たちいり)、深切に世話もなしける尾州の御家來四の宮(しのみや)與野右衞門(よのゑもん)へ相談しけるは、流儀を替(かへ)て精を出さんと存(ぞんじ)、いづれの流儀然(しかる)べき哉(や)と申(まうし)ければ、四野宮大(おほき)にあざ笑ひて、其方(そのはう)は志しある者と思ひて是まで心安くなしたり、其身の志(こころざし)たちなば、なんぞ流儀の能惡(よしあし)しに寄(よら)んや、右(みぎ)體(てい)心(こころ)定(さだま)らざる者は以來(いらい)知人をかえし候、必(かならづ)以來は來るまじと申ければ、詮方なく立別(たちわか)れしが、四野宮が言葉に奮怒して、夫(それ)より一途に精心をこらし修行しければ、果して其妙を得て後(のち)は門弟も多く、兩三人の諸侯よりも是を師と尊崇なしける。其時一通りならば、他の地面へも引移(ひきうつ)りむかしを可隱(かくすべき)なるに、四ツ谷にて最初三百店(さんびやくだな)をかり請(うけ)くらしける近所にて、三百兩の屋鋪(やしき)を求め武藝の師範をなしけるが、其節に至り四野宮方へ至り、御身の一言、誠に我身の藥なり、今は斯(かく)の身分にはなりぬ、是迄は忝しと思へども、禮にも不至(いたらず)、今日禮に來りしと、厚く謝しければ、四野宮も殊外(ことのほか)悦びて、古へに倍して厚く交りけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、こちらは痛打の一喝への忿怒が奮起を促して立身出世するという本格武辺物ではあるが、なんとなく畸人譚ぽく繋がって読める。

・「忿怒」「ふんぬ」で憤怒に同じい。

・「馬場嘉平次」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「馬場嘉平次治」とする。不詳。

・「研屋(とぎや)」のルビは底本の鈴木氏によるもの。

・「紀州の御庶流松平攝津守」松平義居(よしすえ 天明五(一七八五)年~文化元(一八〇四)年)。但し、「紀州の御庶流」は誤り(後述する)。美濃高須藩第八代藩主。ウィキの「松平義居」によれば、一橋徳川家当主徳川治済(はるさだ/はるなり)七男で第十一代将軍徳川家斉弟であった。寛政七(一七九五)年七月の徳川重好の死去により、『治済は義居を清水家の後継者に送り込むことを考え』たが、『松平信明ら幕閣の反対により、実現できなかった。なお、治済は義居をなるべく江戸に近い大名の養子にすることを希望していた』という。寛政八(一七九六)年三月一日に美濃高須藩第七代藩主松平義当(よしとう:彼は尾張藩主徳川宗勝五男でそこからの分家であるから本文の「紀州の御庶流」というのは「尾州の御庶流」でなくてはならない。誤り。訳では訂した。)の養子となり、寛政一一(一七九九)年九月に将軍家斉に御目見、同年十二月十八日に従四位下侍従・摂津守に叙任される(満十四歳)。享和元(一八〇一)年九月二十七日、養父義当の死去により家督を相続したものの、三年後の文化元(一八〇四)年)十月十六日に享年二十で死去したとある。ところが「親は紀州の御庶流松平攝津守家の者成)しが」とあることから、この馬場嘉平次の父親というのはこの義居が義当の養子となった寛政八(一七九六)年以降の家士であったと考えるのが自然なのであるが、そうだとすると「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるからそこから逆算してもたった十三年前のことで、しかも文化元(一八〇四)年に義居は亡くなっているのだから、実はその間のたった五年の閉区間で馬場嘉平次の父は浪人したことになる(寧ろ、義居の逝去がその理由だったと考えると分からぬではないが、それだと――根岸がこの話を聴いた時までに、無収入の浪人が有意に永く続き、生活に困窮、仕方なく刀剣の研ぎ師となり、その父が死に、嘉平次も父の後を継いで研ぎ師となり、母の世話しつつ、有意に時間が経過して、あまりに蔑まされた扱いにやってられなくなって武士に戻ることを決意し、いろいろあったが遂には本懐を遂げた――という経緯が文化元年から文化六年の四年ほどの短期間に起らねばならなくなり、これは明らかに無理がある)。妻子があってそう簡単に脱藩浪人するというのはこれも考え難いから、家士となって三年ぐらいは経ってからの、何らかの不始末からと一応仮定してみると、父は十年程前に浪人となり(当時嘉平次は十五歳ぐらいと仮定する)、それから一、二年で生活が困窮、研ぎ師となったが、浪人から五年後ぐらいで父は亡くなってしまい(その前から父の手解きを受けて研ぎ師を父とともにやっていたとする。当時二十歳ぐらい)、その後の五~八年で本話の経緯があったとするなら、嘉平次は当年二十五~二十八歳ほどで無理がないように思われる。後に出てくる四野宮与野右衛門なる人物が比定出来ればもう少し、この嘉平次の年齢も限定出来そうなのだが。

・「諸武家よりのあつらへもの注文書、又は手紙にも、嘉年次どのと、輕きかたまでしるし越しける」武士階級にあって「殿」は「様」の下の二人称(通常は大名・旗本に対するものであったが、それ以下でも広く武士間で対等な敬称として使用されている)であり、しかも男が出すものでひらがな書きの「どの」というのは、最低の形ばかりの敬称或いは小ばかにした添え書きでさえある。

・「天心流」寛永年間(一六二四年~一六四五年)に柳生宗矩門人時沢弥兵衛が新陰流から学んで創流した抜刀術・剣術の流派(他にも薙刀術・素槍術・十文字槍術・鎖鎌術・柔術などを含む)。

・「きとう流」江戸初期に開かれた柔術の流派である起倒流。ウィキの「起倒流」によると、『天神真楊流とともに講道館柔道の基盤となった流派として知られる。現在、起倒流竹中派の形が講道館柔道において古式の形として残っており、起倒流備中派(野田派)も岡山県で伝承されている』。『愛知県で伝承されている棒の手の流派に同名の起倒流がある。この流派は、天正年間に尾張国那古野(現・名古屋市西区)に住んでいた起倒治郎左衛門が祖と伝えられ、棒の手以外に槍、長刀、鎌、十手、組討がある(以前は取手もあった)が、当流との関連は不明である』。『流派成立時の歴史については諸説があり、定かではないが、福野正勝(福野七郎右衛門、諱は友善とも)と茨木俊房(茨木専斎)が興した武術、武芸が端緒となる。二人とも新陰流(柳生新陰流)および柳生氏と関わりがある』。『また、福野正勝は江戸の国昌寺にて明国人の陳元贇より中国の拳法について教わったとも伝えられ、石碑が東京の愛宕神社にある』。『福野正勝は良移心当和を興し、茨木専斎は自身の兵法を「乱」と名付けて沢庵和尚に書して話したところ起倒流とされた』といった説、『福野正勝の門下に寺田頼重(寺田八左衛門)(福野流)がおり、その甥の寺田満英(寺田勘右衛門 諱は正重とも)はこの叔父から福野流を学び起倒流組討を称した。同時に、寺田満英(寺田勘右衛門、前の諱は正重)は父の寺田安定(寺田平左衛門)から貞心流を伝えられ、直信流の流祖ともなっている』とある。以下、「技術的特徴」の項。『組討、柔術のほか、早縄なども含まれた。以下は吉村扶寿の系統の特徴であり、起倒流乱(古起倒流、上記)はまた違った技術を伝えていた』。『技術的特徴として、技は鎧組討で用いるための投げ技が中心である』。『伝承の中心は『人巻』の中の表十四本裏七本の鎧組討を想定した形であり、そのほとんどが最後に捨て身技(分れ)か自分の片膝を地面に着けて(片膝を折敷いて)相手を後ろに倒すかで表される』。『『人巻』の中の目録に掲げてあるように、表十四本裏七本の形の後は柄取り、小尻返し、諸手取り、二人取り、四人詰め、居合(居取りのこと)といった柔術にあたる業(わざ)や要訣も伝えていた。柄取、小尻返の二つについては「此二カ条ヲ以テ先師三代ノ勝口ヲ可勘」との口伝がある。当身については「中」、「中り(あたり)」と称して陰陽中や五行中など各種の教えがあった。また、水野忠通『柔道秘録』によれば、甲冑を実際に身に着けて行なう組討の形が五つあり、相手を組み敷き短刀で首を取る形や組み敷かれた時に短刀で反撃する方法の伝承もあったことがわかる。当て身についても実際は目鼻の間などをあてるが稽古の上では当てずに額を押すようにするなどとしていた、とある』。『起倒流の十四形(表)と七形(裏、無段)の稽古はある段階からは形の残り合いなどと言い、技の掛かりが甘ければ投げられる側が反撃するような、形と乱取の中間のような稽古方法をとった』とある。

・「四の宮與野右衞門」底本注で鈴木氏は、『尾張藩の中遠流砲術家四宮氏は代々元衛門と称した。この一族か』とされ、岩波版で長谷川氏は、この四宮『元衛門兼豊・幸右衛門兼正の次代の者であろう』とされる。人物が特定され、生没年が明らかになるのはもう一歩と思うのだが。

・「三百店」店賃(たなちん)がたった三百文程度(当時の米一升の小売価格は百二十文)のごく安い粗末な借家をいう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 憤怒がその身を立身させた事

 

 馬場嘉平次(かへいじ)と申す者がおる。

 親は尾張徳川家の御分家であらせらるる松平摂津守義居(よしすえ)殿の家士であったが――いかなる訳かは知らねど――浪人して、父親は結局、その後ずっと永く生業(たつき)なきままに浪々、遂には困窮の極みに至って、苦し紛れに始めたが刀剣の研(と)ぎ屋、それを若き嘉平次も手解きを受け、その後に父が急死致いてからも、引き続いて研ぎ屋を営んではおったものの、いろいろな武家衆よりの刀剣研ぎの注文書や依頼の文(ふみ)にも、

――嘉平次どの

なんどとあり……いや、それどころか、本来ならば彼よりも遙かに身分の低い者からのそれらに至るまで、

――嘉平次どの

と書き記して送って参ったればこそ、これ、武士として、

『……まっこと……残念至極!……』

と常々思うておったれば、遂に、

『……何卒! 父以前の、武士に戻らんとぞ思う……』

と、町人の身分ながら、剣術は天心流、柔術は起倒(きとう)流を稽古致いて、その道にのみ心を砕き、無心一心にその稽古にのみ専心したところが、あっという間に、はなはだ困窮なし、辛うじて研ぎ屋として表通りに構えて御座ったお店(たな)をも仕舞わざるを得なくなって、裏長屋の軒に「とぎや かへいじ」と書いた板切れをぶら下げた、狭き屋に移って、そこで母の世話をなしつつ、それでもなお、変わることのぅ、日々、武芸に励んでおったと申す。

 他(ほか)の流儀の道場を見つけては、立ち寄って術や手技に就いて論じ合い、時よっては立ち合いの稽古なんども致いて御座ったれど、

『……どうも……最近……我らが稽古致いておる天心流やら起倒流やらは、これ、いい加減知り尽くしたよって、言うまでもなく……この辺りの知れる孰れの流儀の道場にても手合わせ願ってはみたが……これ……どれもこれも……面白うないわ……』

と思うたによって、かねてより心安く立ち入っては、親切にも世話なんどまで成し呉れて御座った朋輩の尾張藩御家来四野宮与野右衛門(しのみやよのえもん)殿へ相談に訪れたと申す。そこで、

「……という訳にて……ともかくも何か、こう――ぴんとくる――流儀へと鞍替え致いて、心機一転、精を出ださんと存じたによって……貴殿のことなれば、江戸表に御座る我らが知らざるところの孰れの流儀、これ、拙者に相応しきものと思わるるかのぅ? 一つ、御意見を伺いたく参上致いた。」

と申し述べた。

 すると、四野宮、これ、大いに嘲り笑うと、

「――その方(ほう)は――真っ直ぐなる志しのある者――と思うておったによって――今日まで心安く致いておったが――そもそもが――身の志しさえ立派に成し遂ぐることが出来たとなれば――なんぞ――武術流儀の良し悪しなんど――これ、問題になろうかっ?!――最早、そのようなことは些細にして下らぬ分別となるは、これ、言を俟たぬ!――さればそのように――心のふらつき――定まらざるような輩は以後、絶交の言いを返さんとする!……必ずや、向後一切、我らが元へは遠慮なされいっ!」

と、言い放った。

 されば嘉平次、詮方のぅ、立ち別かれ、四野宮が屋敷を辞しはしたものの、帰り道から四野宮のあまりの物言いに、むらむらと憤りが増して参り、長屋にたち戻った頃には怒髪天を衝き、一夜明けても、その怒りは冷めやらずあったと申す。

 さればまさにその日より、さらに一途に猪突猛進の精心(せいしん)を凝らし、鬼の如き修行をば、し続けて御座ったと申す。

 するとはたして、その修行の凄さ神妙なりと申す噂を得、瞬く間に門弟も多く出できて、併せて三人にも及ぶ近隣諸侯からも、直接に指南の招請を受けて、孰れの殿様方からも、この馬場嘉平次を師と尊崇するに至って御座ったと申す。

 さて、これが普通ならば、住まう所も、かつて住んで御座った場所から引き移し、過ぎし日の賤しき生業(ありわい)やおぞましき暮らしについては、これ、隠すが常套ならんに、嘉平次は、もともと居ったる四ッ谷の――かの最初、蚤虱蠅に蛆湧く三百店(さんびゃくだな)を借り受けておったるその――近所にて、三百文ならぬ、三百両にて屋敷を求め、類い稀なる剣士として、武芸師範の道場を構える仕儀と相い成って御座った。

 その頃になってやっと、嘉平次、四野宮が方へと参り、

「……御身(おんみ)の一言(ひとこと)……まことに我が身の薬にて御座った。……今はかくなる身分には相いなること出来申した。……これまでも実はずっと……『忝きことであった』……と思うて参ったれど……まずは……我らの志しの確かに腑に落ちんまではと……敢えて参上仕らず……今日に至って……やっと御礼を致すに相応しき心身(しんしん)の定まりましたによって……かくも御礼を致さんものと参上致して御座いまする。」

と、心を尽くして謝した。

 すると、四野宮も、これ殊の外に悦び、それより今に至るまで、かつての倍して親しゅう交わっておるとのことで御座る。

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