『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 頼朝屋敷跡
●賴朝屋敷蹟
鳥合原の東方に在り廣さ八町四方の地なり。東鑑に治承四年九月九日。千葉介常胤申(まうして)云。當時の御居所要害の地に非す。又御曩跡にも非す。速に相摸國鎌倉に出しめ給ふべし。常胤門客等を相率(あいひきい)て御迎ひに參向(さんかう)すへきの由申。同十月六日。相撲國に著御あり。同九日。大庭平太景義奉行として。大倉郷(おほくらのさと)に御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致しがたきに因(よつ)て暫く知家事兼道が山内(やまのうち)が宅を移され。此を建立(こんりう)す同十二月十二日。上總介廣常が宅より新造の御亭(ぎよてい)に御移徙の儀あり有り。即ち此處(このところ)なり今見る所は分内狹隘(けふあい)の樣なれども。法華堂など賴朝の法華堂と云へば。此邊總て殿宇なりしなるべし。曩昔(むかし)結搆(けつかう)のさま今之を知るべからずされど。地形を以て其境界を計るに。南は大藏町の街道。西は鶴岡。北は法華堂に邊(へん)し。又艮の方に荏柄天神社あり。其際(そのさい)に臣下の居邸(きよてい)も往々あろしなり。東鑑に和田平太胤長が宅幕府の東隣たりと記すを以て知るべし。四面(しめん)に門を設け其方位を以て之を稱し。又門外の地名をも東御門(ひがしごもん)西御門(にしごもん)南御門(みなみごもん)など唱へしと見ゆ。
[やぶちゃん注:「八町」八七二・七メートル。
「治承四年」西暦一一八〇年。
「御曩跡」先祖以来の由縁の地。この話柄の当時は頼朝は現在の上総一ノ宮にあった「上總介廣常」の屋敷にいた。但し、後に出る「上總介廣常が宅」とは別なので注意されたい。
「大倉郷」この地名は当該の「吾妻鏡」の記事には出ないので注意が必要。初出は頼朝の御所入居の治承四年十二月十二日の条。
「知家事」「ちけじ」又は「ちけいじ」と読む。鎌倉幕府成立後ならば政所(まんどころ)の職員で案主(あんじゅ)とともに事務方を分掌した職名を指すが、ここはそれ以前なので公家・武家の家内の政所の職名で別当の下にあって諸事務の処理に当たった者の謂い。ここに出る「兼道」なる人物は、その邸宅の位置から見て、恐らくは「山内」荘を支配していた「山内」家の知家事であったものと推測される。
「上總介廣常が宅」現在の朝比奈旧道近くにあったと推定される広常の鎌倉の別荘。
「艮」「うしとら」と読む。丑寅(東北)で鬼門。
「和田平太胤長」(寿永二(一一八三)年~建暦三(一二一三)年)和田義長嫡男、和田義盛甥。弓の名手とされる。従弟の義直、義重(義盛の子)らとともに泉親衡の乱(建暦三(一二一三)年二月、泉親衡が頼家遺児千寿丸を擁立して北条氏を打倒しようとする陰謀が未然に露見した事件であるが、泉親衡は遁走して生き延び、乱の関係者は和田一族を除いて後に悉く赦免されており、北条義時が仕掛けた謀略の可能性が極めて高い)の謀議に加わったとして捕縛された。この時、義盛の嘆願により義直と義重は赦免されたが、胤長一人だけ赦されず、陸奥国(後の岩代国)岩瀬郡に配流となった上、没収された胤長の屋敷が慣例に反して義盛には与えられず北条義時が召し上げてしまった(「吾妻鏡」建暦三年四月二日の条。そこに『相州被拜領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衞門尉義盛代官久野谷弥次郎各所卜居也。義盛雖含鬱陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々』(相州〈義時〉、胤長が荏柄の前の屋地(やち)を拜領せられ、則ち行親〈金窪〉・忠家〈安東。ともに義時の被官〉に分ち給ふの間、前の給人和田左衞門尉義盛が代官久野谷弥次郎を追ひ出し、各々卜居(ぼくきよ:住居とすること。)する所なり。義盛、鬱陶(うつたう)を含むと雖も、勝劣を論ずれば、〈将軍実朝の裁許であるから〉已に虎鼠のごとし。仍つて再び子細を申す能はずと云々。)とあり、まさにこれが後日の和田合戦(建暦三年五月二日)の引き金となった)。胤長は和田合戦の後に配流地で処刑されている(ここまでは一部をウィキの「和田胤長」に拠った)。また、彼は頼家の命で伊豆山中の洞窟に入って「大蛇を切り殺した」と報告した人物としても知られる(「吾妻鏡」建仁三(一二〇三)年六月一日の条)。
「東御門(ひがしごもん)……」御存じの通り、現今の地名としては「ひがしみかど」「にしみかど」と呼称している。]
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