「栗氏千蟲譜」巻十の「蟹甲」の十二点の円紋を持つ図は捏造である(詳説)
「栗氏千蟲譜」の巻十の「蟹甲」の画像を示す。画像は国立国会図書館蔵の「国立国会図書館デジタルコレクション」のものである。トリミングしたが、画像の補正処理は一切行っていない(これが原色である)。
[曲直瀬愛旧蔵「栗氏千蟲譜」巻十より「蟹甲」]
まず本文を翻刻する(この本文が本考証では非常に重要な意味を持つ)。
蟹甲 蛮産
晴川蟹録引北戸録曰十二點儋州出紅蟹大小殻上作十二點
深臙脂色亦如鯉之三十六鱗耳其殻與虎蟳堪作※子格物
總論紫蟹殻似蝤蛑足亦有發棹子但殻上有烟〔臙〕脂斑點不
比蝤蛑之純青色耳云々
蛮産作酒杯而
為珎奇
文化丁丑仲夏近藤正斎秘弆
醫學舘藥品會所排列也
[やぶちゃん字注:「※」=「疂」の(わかんむり)の下を「正」に代える。「疊」の正字「疉」であろう。]
一部に自信のない箇所があるが、力技で訓読してみると、
蟹の甲 蛮産。
「晴川蟹録(せいせんかいろく)」の引く、「北戸録」に曰はく、『「十二點」。儋州(たんしふ)の出。「紅蟹」。殻上に大小ありて、十二の點を作す。深き臙脂色をなし、亦、鯉の三十六鱗のごときのみ。其の殻、「虎蟳(コジン)」に與(くみ)するに堪へたり。「疉子(でふし)」にも作る。「格物總論」に、『紫蟹。殻は「蝤蛑(ガザミ)」に似る。足、亦、發棹子(ハツタウシ)、有り。但だ、殻上に臙脂の斑點有り。「蝤蛑」の純青色のみとは比(ひと)しからず云々』と。』と。
蛮産。酒杯に作りて珎奇(ちんき)と為す。
文化丁丑仲夏、近藤正斎が秘弆(ひきよ)、醫學舘藥品會所の排列なり。
鮮やかな赤色円紋を驚くほど多数有する蟹の、右の下部に鮮やかな赤色円紋の連続する背甲の前部からの図(尾部が見えていないか若しくは元々欠損している品と思われる)、背甲の内側(甲羅裏面)の図(前帖にもかかっている)及び背部(甲羅表面)全面(尾部も見えている)の図。この二つは前頁の固体の異なる大型個体の、背甲の二様を描いたようにも見受けられる。そうしてこれらは「蛮産」とあって、しかも「醫學舘藥品會所排列也」とあるから、これら三図は総て外国からもたらされた原物(図であったら「排列」とは言うまい)を模写したものと考えてよい。しかも、その描写の著しい円紋の差異とその大きさ及び形から「排列」されたものは大小二品であったと推測される(三品でなかったとは言いきれないが、後者の甲羅の表裏は同一個体であろう)。
当初、私が底本のモノクロームの画像を見た際には(三十年も昔のことであるが)、まず短尾下目ガザミ科ガザミ属ジャノメガザミ Portunus pelagicus を思い出したが、しかし、あれは黒点を三つしか有さないし、そもそもが大型の図の二枚の甲羅の形状がワタリガニ類とは全く異なるからあり得ない、これは確かに「蛮産」とあるから南洋の変わった種なんだろうと考えた(最後の部分は誤り)。後に原本画像を見ると「本文通り」、目玉のような「點」は「12」もあって、しかもその色は目も醒めるような鮮やかな「臙脂」ではないか! 見開きとなっているこの部分は総て数えると実に二十八箇所に及ぶ(中央位置の甲羅裏面からの描画の四方の端に出る円紋の一部を含む)鮮やかな臙脂の強烈な印象によって、この「栗氏千蟲譜」の原画像を一見した者の脳裏からは、容易に消えない映像であると言ってよい(事実、私がそうであった)。謂わば、この見開き二帖は本「栗氏千蟲譜」に於ける文字通りの「目玉」であると断言してよいと私は考えている。但し、この発色については取り敢えず、ジャノメガザミを料理すると目玉が鮮やかな臙脂になるように煮沸標本処理による発色の可能性や、本文に「作酒杯」とあるように実は人為的な加工附加がなされている可能性をも考慮する必要がある。
ともかくも結論から言うと、これら三図は総て、取り敢えずは、
短尾下目オウギガニ上科アカモンガニ科アカモンガニ Carpilius maculatus である
と言ってよい(極めて近縁の同属の異種である可能性は無論、ある)。アカモンガニ Carpilius maculatus は本邦では紀伊半島以南・伊豆諸島に棲息し、ハワイなど亜熱帯及び熱帯域に広く分布している。甲幅は十五センチメートルほどまで成長し、沿岸域のサンゴ礁や岩場を棲家としている。鉗脚は孰れか一方が相対的に大きくなる。夜行性で日中は珊瑚・岩の隙間や穴の中に隠れており、夜になると活発に活動する。本種は南方では食用とされるが、個体によって毒化(シガテラ毒)したものがあるので注意を要する。但し、左右に配された甲羅表面の大小の二図にはすこぶる問題がある。しかもその問題の根は単純ではなく、オキノテヅルモヅルの腕の如く、とんでもなく絡み合っている。
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以下、本文の語注を記す。
「晴川蟹録」清の孫之騄(そんしろく)の撰した蟹類の博物誌と思われる。
「北戸録」中文サイトで原典を管見したが、唐の段公路の撰したもので、多分に幻想的な博物誌と思われる。
「儋州」現在の海南島北西部に位置する海南省儋州(だんしゅう)市。三方を海に囲まれ、三十一平方キロメートルに及ぶ海岸線を持つ(現在は洋浦経済開発区が設置されており、想像するに相当な環境破壊が予想される)。参照したウィキの「ダン州市」によれば、『海南島は古くは流刑地であった。儋州の東坡書院は蘇軾(蘇東坡)がここに流されたことを記念したものである』とある。
「鯉の三十六鱗」コイには体側に三六枚の鱗が並んでいるとされる。事実、コイの側線鱗(側線を覆う鱗。この側線鱗の孔によって種を区別することが可能)は平均で三十六枚ある。そこから「三十六鱗」はコイの異名となった。
「虎蟳」中文サイトの本草書記載を見ると、後に出る「蝤蛑」(ガザミ)と同義とする。「海族志」に『文有虎斑、色如瑪瑙』(文、虎斑有り、色、瑪瑙のごとし)とあるのでガザミ類とみてよかろう。
「格物總論」宋代の類書(百科事典)である「古今合璧事類備要(ここんがっぺきじるびよう)」別集九十四巻中の各項目の初めに置かれた論で南宋十三世紀末頃の石榴の撰。
「蝤蛑」は「シウボウ(シュウボウ)」であるが、現在も本邦でもガザミ(ワタリガニ)をこう書くので、ここは例外的に「ガザミ」とルビした。原義は「蝤」が木食い虫(カミキリムシの幼虫)、「蛑」が根切り虫やカマキリの意で如何にも腑に落ちる。
「發棹子」ワタリガニ類の第五脚は脚の先が平たく変形した遊泳脚となっている。これを棹(櫂)を発する(動かす)子(小さな物に添える接尾語)と称したものであろう。
「文化丁丑」文化一四(一八一七)年。
「近藤正斎」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は江戸後期の幕臣で探検家。守重は諱。間宮林蔵や平山行蔵と共に〈文政の三蔵〉と呼ばれる。明和八(一七七一)年に御先手組与力近藤右膳守知三男として江戸駒込に生まれ、山本北山に儒学を師事した。幼児かより神童と賞され、八歳で四書五経を諳んじて十七歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残した。父の隠居後の寛政二(一七九〇)年に御先手組与力として出仕、火付盗賊改方をも勤めた。寛政六(一七九四)年には、松平定信の行った湯島聖堂での学問吟味に於いて最優秀の成績で合格、寛政七(一七九五)年に長崎奉行手付出役、寛政九(一七九七)年)に江戸へ帰参して支払勘定方・関東郡代付出役と栄進した。寛政一〇(一七九八)年に幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり、四度、及ぶ蝦夷地へ赴き、最上徳内・千島列島・択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させてもいる。享和三(一八〇三)年に譴責により小普請方となったが、文化四(一八〇七)年にはロシア人の北方侵入(文化露寇ぶんかろこう:文化三(一八〇六)年と文化四(一八〇七)年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件と呼ばれる)に伴い、再び松前奉行出役となって五度目の蝦夷入りを果たした。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索、江戸に帰着後には将軍家斉に謁見を許され、その際には札幌地域の重要性を説いて、その後の札幌発展の先鞭を開いた。文化五(一八〇八)年、江戸城紅葉山文庫(後注で詳述する)の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が咎められて、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷させられた。因みにこの時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたという。文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居した。重蔵は本宅の他に三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)に広大な遊地を所有しており、文政二(一八一九)年に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園、目黒新富士・近藤富士・東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れたという。しかし文政九(一八二六)年に上記の三田の屋敷管理を任せていた長男近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民七名を殺害、八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられた。文政十二年六月十六日(一八二九年七月十六日)に逝去、享年五十九。死後の万延元(一八六〇)年になって赦免された。実に数奇な才人である(以上はウィキの「近藤重蔵」に拠った)。
「秘弆」「弆」は蔵する・しまっておくの意。秘蔵。
「醫學舘藥品會所」「醫學舘」は江戸幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校。文化三(一八〇六)年に大火で焼失、浅草向柳原に移転再建された。「藥品會所」はそこが主催した漢方薬に限らず、万国の物産や動物を公開したもので多くの見物人が集まった。
以下、本図(右下の十一点円紋の甲羅図)についての考証に入る。
アカモンガニ Carpilius maculatus は英名を“Seven-Eleven crab”というように円状紋の数は11である(特に目立つ大型の円紋が7個に目立たないものが4個加わって総計11という意味らしい。どこかのコンビニの回し者ではない)。画像は小さいものの、英文サイト“National Institute of Oceanography”の“Carpilius maculatus”が最適と考えるのでリンクしておく。ネットのアカモンガニの画像写真を縦覧すると、そもそも前頭部辺縁(底本右下画像の手前部分。図では円紋が九個もある)にはこんなに円紋は集中しておらず、多くのアカモンガニ Carpilius maculatus は、大中一つずつが左右に一対あるものが殆んどで、甲の中央に大紋が三つ(真ん中のものが左右よりも大きい)と、実は右下部の本図には描かれていない甲背部の方に大きな円紋二つとそのやや側面の脇の方に中位のものが一対あって計11である。
しかも、そうすると今度は、右下のトンデモ「十二點」甲羅とは別に、次帖に出る大きな甲羅のそれが12点もあるのが、これまた問題となってくるのである(これは最後に考証する)。
さて、栗本丹州の「千蟲譜」の原本は栗本家に伝えられてきたが、関東大震災の折りに惜しくも失われたらしく(底本の小西正泰氏の解説に拠る)、現在、我々が見るものは見ることが出来るものはその総てが写本で、小西氏によれば国立国会図書館にはそのうちの五種が蔵書されている。小西氏はそのうち、幕末昆虫学者として知られた曲直瀬愛(嘉永三(一八五一)年~明治二一(一八八八)年)が原本と校合して補写した、この「栗氏千蟲譜」(全十冊)が、原本の複製に忠実で字が丁寧に書かれてあって読み易い点から底本に選んだと述べておられる。確かに色彩や対象の形状を描写するに際してのポリシーには、特に曲直瀬の専門であった昆虫類の描画に於いてはそうした科学的正確さが発揮されているようには思われる。
しかし、ここで同図書館が所蔵するところの別写本である服部雪斎写になる旧伊藤圭介所蔵本「千蟲譜」(全三冊)の当該図を見てみよう。当該図はこちらでは見開きではないので、トリミングして示す(同じく「国立国会図書館デジタルコレクション」のもので画像の補正処理は一切行っていない。これが原色である)。
[長谷川雪斎写・伊藤圭介旧蔵本「千蟲譜」第二巻より「蟹甲」]
他の図も縦覧するとはっきりと分かるが、服部雪斎は画師として非常に優れた才能を持っていたと思われ、細部描写がすこぶる上手い(昆虫類は私の守備範囲ではないので分からないが、少なくとも「巻九」のアメフラシなどの海産生物の皮膚質感では科学的にもリアルな描写力を持っている。ということは、失われた原画の丹州自身の描写力はもっと凄かったことを物語る)ただ、絵的な良さを狙って原本の絵に過度の彩色を施した嫌いがないわけではないようにも窺われるのであるが、しかし、この一枚目の画像をよく見て頂きたい。
曲直瀬の図で円紋が九つも描かれていたのが、この雪斎のそれでは、中央の三つと前頭部の左右の二つの計七つのはっきりとした円紋しか描いておらず、口吻周辺には白抜きの小さな円紋と蛇行した溝のようなものが描いていて、全く異なるのである。
私は、もし、雪斎が「絵的な良さを狙う」ならば、原本に曲直瀬の描いたような鮮やかな臙脂の円紋がこれでもかと並んだ絵があったとすれば、絶対にそれを忠実に(或いはもっと派手に)描いたに違いなく、それをこのような何だか分からないような、ふにゃふにゃのボカシでもって手抜きをする、お茶を濁すはずがないと思うのである。また、この一見はっきりしない白抜きの箇所は、実はアカモンガニの眼柄部に至る波線のような甲辺縁部及び眼柄の収まる溝部分の忠実な再現だったのである。
ということは――実は丹州の描いた原本には、この曲直瀬版で12の円紋を有する蟹の甲には――実は臙脂の円紋は雪斎が描いた通り――正しく7つしかなかったのではあるまいか?
では、何故、曲直瀬は円紋を12も描いて捏造してしまったのか?
そこで本文である。本文には「北戸録」から『「十二點」。儋州の出。「紅蟹」。殻上に大小ありて、十二の點を作す。深き臙脂色をなし、亦、鯉の三十六鱗のごときのみ』とある。非常に考え難いことではあるが、曲直瀬は、この図のキャプションと判断した叙述と、実は七つしか臙脂の円紋がない本図の齟齬を解消するために、原画の甲前面の眼柄部に至る「ふにゃふにゃ」した溝や一見丸く見える部分が円紋であったと早合点し、勝手に5つを付け加えて描いてしまったのではあるまいか?
しかし乍ら、普通に考えると、今度は次の大きな甲羅の図との齟齬が生ずることに曲直瀬は容易に気づいたはずである。そこでは甲の後部も描出されそこに円紋があって、それらを総て足すと何と、「十二點」あることに、である(因みに通常のアカモンガニと比べると甲羅の後ろの真ん中にある有意に小さな円紋が余計である。これは後でまた考証する)。
しかしそこが実はミソなのではあるまいか? 曲直瀬は実はここで、
「……こちらは後ろの方にも円紋が配されてあって計十二の点がある。しかも大きさも全然違う。……ということはだ……これは……前の記述の右下の『十二點』のそれとは多分、別な種類の蟹の甲羅の絵なのだ。」
と、半ば都合よく納得してしまったのではなかったろうか?
但し、実際の絵が、この「トンデモ12」でなかったとは断言は出来ない。
実はこのアカモンガニは見た目が美しいことから古くから飾り物にされてきた経緯がある(荒俣宏「世界大博物図鑑1 蟲類」(一九九一年平凡社刊)のアカモンガニの図のキャプション(一三二頁)にある。因みに、ここで荒俣氏の引いているアカモンガニの図は以下に記すキュビエのものである)。そして、中国の本草書にかくも奇品として『十二點』が記されてある以上、11しか「點」を持たぬアカモンガニの甲羅に、強引に、曲直瀬図のように古書にある通りの臙脂の円紋を捏造して付け加え、縁起物の装飾品や酒盃(ちょっと呑み難そう)などに加工して『十二點』として売っていた可能性は十分あり得るからである。
しかし、だとすると、雪斎の絵の説明がつかなくなると私は思う。私は、雪斎は実に正しく(本文の「十二點」という記載に惑わされることなく)描いている可能性が高いと考えている。
さすればこそ、この図に限っては、やはり曲直瀬(彼は昆虫学者ではあったが、他の海産生物の写図を見るとその方面には疎かったように思われる)が図を捏造したとしか思われないのである。科学者としてはあり得ないのであるが、今だってないものをあるように捏造してしかも平然としている科学者は、これ、ごろごろいるではないか。
*
最後に12の円紋を有する左の甲羅の図について考えてみたい。
これはやはり、アカモンガニ Carpilius maculatus の図としては正しくない。
もし、実際の医学館薬品会に出品されたものが実際にこうであったとすると、それ自体が自然のままの標本ではなく、それこそ前に述べたような人為的に12点に捏造されたものであった可能性がやはり出てくる。特に間違えようのない場所(甲羅後部の中央位置)に余計に誤って描き加えるというのは、普通は如何にも考え難いからである。
ところが、である。
ここに、かの有名なフランスの生物学者キュヴィエ( Georges Cuvier )の刊行した“Le règne animal distribué d'après
son organisation”(「動物界」)の“Carpilius maculatus”の図がある(英文サイト“Biodiversity Heritage Library”の同書当該頁よりダウンロードしたものを示す)。
この一番下のアカモンガニ Carpilius maculatus の画像をよく見て頂きたい。
円紋が何と――13――あるのである。
こうなると流石の私も実は、今まで問題としてきたものがアカモンガニ Carpilius maculatus なのかどうか、確信がやや揺らいでくるぐらいである。……これは前額部左右に三点一対、背部中央に三点、後部に四点の、13の臙脂の円紋を持つCarpilius の別種がいるのではないか、とすれば、「千蟲譜」の12点がいたっておかしくはないか……などとである……
ところが、である。
このキュヴィエの図、よく見てみると、前額部の左右三個の一対の円紋のそれぞれの真ん中の円紋の中に眼柄があるのである。無論、こういう種がいないと断言は出来ないが、現在、普遍的に棲息し、よく知られているアカモンガニ Carpilius maculatus の眼は、前額辺縁二個一対の円紋のさらに先、頭頂部近くの窪みの部分にある。キュヴィエが描いたようなアカモンガニはネットを探っても捕獲出来ないのである。
則ち、この偉大な博物学者キュビエの描いた、アカモンガニ Carpilius maculatus と比定してよい(荒俣前掲書もそう比定している)美しい図も、実は何と、「トンデモ13」であったということになるである。
曲直瀬版も雪斎版も12であるから、丹州の原本も恐らく、「トンデモ12」であったに違いない。しかしそれに先立つ御大キュビエでさえも「トンデモ13」だったことがここに判明するのである。
正確なボタニカル・アートの難しさが思い知らされた気分ではある。しかし、試みにネットのグーグル画像検索「Carpilius maculatus」をご覧になられるがよい。写真では眼柄の収まる凹みの部分が光の具合によって、暗く小さな半環のように見えているものがあるのである。まだしもキュヴィエの絵は許される誤り(眼柄が後退しているのは問題であるが)であるという感じが私にはしてくるのである。
以上は専門家でない私の勝手な推理に過ぎない。是非とも大方の御批判を俟つものである。
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