橋本多佳子句集「海彦」 浦上天主堂
浦上天主堂
原爆の跡に仮御堂建つのみ
同じ黒髪梅雨じめる神父と子等
梅雨の床子等へ聖書を口うつしに
石塊として梅雨ぬるる天使と獣
梅雨の廃檀石塊の黙天使の黙
梅雨に広肩(ひろかた)石のヨハネの顔欠けて
[やぶちゃん注:多佳子の浦上天主堂来訪は昭和二九(一九五四)年五月である。底本年譜によれば、『浦上天主堂は被爆の跡に仮堂を建て、孤児たちを収容。孤児たちは神父より聖書を習っている』とある。以下、浦上天主堂公式サイト内の「原爆被災」から引用する。昭和二〇(一九四五)年八月九日午前十一時二分、浦上の松山町上空五百メートルで炸裂した原子爆弾は浦上を焼土と化した。『この日、浦上天主堂では毎年のならわしによって、大祝日の前には地区ごとに日をきめて告解の秘跡が行われていた。聖母被昇天の大祝日の準備の告解のために主任司祭西田三郎師は聖堂に入ろうとし、助任司祭玉屋房吉師は告解場に入っておられた』。『この日は数十人の信者が天主堂内にいたと思われる。そして爆風で天主堂は倒壊し』、二人の神父も『信者たちも即死した。倒壊した天主堂には火がつき炎上した』。『長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊』した(同サイト内「浦上天主堂の被爆後の写真」及び「原爆資料室」)。『一部側壁を残すのみで全壊で』、『正面上部の右塔は真下に落下して破壊し、左塔は天主堂左下の川の中にほとんど壊れず落下している』。『正面入口のアーチ部分は亀裂甚だしく、間もなく引き倒』され、『その他の各側壁も亀裂甚だしく、正面右側入口部分を残して全部引き倒』された。『残った石像の内、天使像』十七体と『聖マリア、聖ヨハネの石像は、再建整備された現在の天主堂正面に装着されて』いる。それが鼻部分が欠けた多佳子の詠んだ聖ヨハネ像である。私が撮った写真があるはずだが、直ぐに出ない。うさ氏のブログ「たるるの部屋」に掲げられた写真をリンクしておく。]