北條九代記 卷第六 將軍家濱出 付 遊君淺菊
○將軍家濱出 付 遊君淺菊
同三月に改元あり、寛喜元年とぞ號しける。四月十七日には將軍家、三崎の浦に出で給ふ。相摸守時房、武藏守泰時、以下、多く皆、御供(おんとも)に參られたり。駿河前司義村、御舟を點(てん)じて饗應(あるじまうけ)の營(いとなみ)、善(ぜん)、盡(つく)し、美、盡せり。將軍家、御舟に移り給へば、管絃の調(しらべ)、聲、緩(ゆるやか)に浦輪(うらわ)に亙りて面白し。海中の鱗(うろくづ)も鰭(はた)を揃へて波に浮び、藻屑に交る鰕魚(かぎよ)までも感を催す計(ばかり)なり。鼓巴(こは)、琴(こと)を彈(だん)ずれば、馬は秣(まぐさ)に仰(あふ)ぎ、水中に、魚、跳る。定(さだめ)て驗(しるし)なからめや。佐原(さはらの)三郎左衞門尉、此比、隱(かくれ)なき遊君(いうくん)に淺菊(あさぎく)とかや聞えし者を倶(ぐ)して參り、一葉(えふ)に棹(さをさ)して、聲善(よ)く歌ひける。皆、興ぜざる人はなし。御舟に召されて、催馬樂(さいばら)を歌はせらる。「老鼠(おいねずみ)」「あな貴(たふと)」をぞ歌ひける。樂(がく)の調(しらべ)に叶ひければ、將軍家を初(はじめ)て奇特(きどく)の事にぞ思召しける。折々は御所へも參るべきなりとて、御盃(さかづき)を下されしは面目とぞ聞えし。山の姿、海の詠(ながめ)、絶景の勝境(しようきやう)、又、外(よそ)にはあるべからずと頻(しきり)に御入興(ごじゆきよう)ましましけり。夜に入りければ、山の端(は)出る月の比まで、數々(かずかず)廻(めぐ)る盃に、各(おのおの)數盃(すはい)を傾けらる。風靜(しづか)に雲收りて、月、既に出でて波間に影を浸(ひた)す程にて、將軍家、還御なりにけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七寛喜元(一二二九)年四月十七日と十九日に基づくが、前段に引き続き(三浦義村や同族佐原家連の差配による海上饗宴という酷似性でも強い連関性を持たせてある)、やはり大きく膨らましてある。
「濱出」「はまいで」と読む。
「同三月に改元あり」同年三月五日。「吾妻鏡」の三月二十五日の条に、『去五日改安貞三年。爲寛喜元年。』(去ぬる五日、安貞三年を改めて、寛喜元年と爲す。)とある。
「浦輪」湾。
「海中の鱗も鰭を揃へて波に浮び、藻屑に交る鰕魚までも感を催す計なり。鼓巴琴を彈ずれば、馬は秣に仰ぎ、水中に魚跳る」太政大臣藤原師長の東国への遠流を語る「平家物語」巻之三「大臣流罪」に、彼が琴に秀でていたことを語る段の、『胡巴、琴を彈ぜしかば、魚鱗躍り迸(ほとばし)り、虞公、歌を發せしかば、梁塵搖(うご)く』とあるのに基づくものであろう。原文はあたかも琴自体の名のようにも見える(増淵勝一氏の教育社新書の訳でもそのように訳されているように見える)が、これはそもそもが「列子」湯問篇の「瓠巴鼓琴、而鳥舞魚躍」(瓠巴、琴を鼓すれば、鳥、舞ひ、魚、躍る)によるもので、御覧の通り「鼓巴」は「瓠巴(こは)」の誤りであり、しかも「平家」の対句表現の「虞公」からも分かる通り、「瓠巴」とは楚の琴の名人の名前である。但し、これは「北條九代記」の筆者自身が琴の名と思い込んで誤用したものかも知れないし、当時そのように呼ぶ琴がなかったとも断言出来ず、また「瓠巴」は単に琴の奏者、琴の名人という意味で用いたと考えれば、本文はすんなり読めるとも言えるし、増淵氏の訳も語訳とは言い切れない。しかし、その場合でも、最低でも訳では「鼓巴(琴の名人)が琴を弾くと」と注を入れてかくすべきであろうと私は思う。
「定て驗なからめや」「や」は反語で、――どうしてその霊妙なる琴の響きによって歓喜雀躍しなかったどということがあろうか、いや、馬も魚もそれに恍惚となって我を忘れたのである――と謂いであろう。
「佐原三郎左衞門尉」佐原家連(生没年未詳)。三浦義明の子佐原義連の子で三浦義村の甥に当たる。
「淺菊」「吾妻鏡」には以下に見るように『遊女等』と出るのみである。これ以降の詳細は一体、何を素材としたものであろうか。筆者には失礼ながら、全くのオリジナルともちょっと思われないのだが。
「催馬楽」雅楽の演目の一つ。平安時代に貴族の間で盛んに歌われた声楽曲で大陸から伝来した唐楽。高麗楽 (こまがく) 風の旋律に日本の民謡や童謡の歌詞を当て嵌めたものが多い。発生の時期は平安初期に遡るが、平安中期以後、特に源雅信の活躍した九百年代から鎌倉初期にかけて盛行した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「老鼠」底本頭書に『西寺の老鼠若鼠御裳つんつ袈裟つんつ法師に申さむ師に申せ』と歌詞を載せる。別名を「西寺(にしでら)」ともいう。高麗楽の林歌が元とされる。サイト「雅楽的音楽研究書」のこちらを参照されたい。以下に見るように「吾妻鏡」には出ない。
「あな貴」同じく頭書に『あな貴今日の貴さや古もかくやありけん今日の貴さ』とある。「催馬楽wiki」の当該曲の解説によれば、催馬楽の中では最も演奏される機会の多い曲であったと思われるもので、「源氏物語」の中でも演奏場面が三例あるという。同前。
以下、「吾妻鏡」を示す。〈 〉で私の注を挿入した。
〇原文
十七日甲寅。晴。辰尅。將軍家御出于三崎津。相州。武州已下多被參。駿河前司儲御船等於件浦。於御舟中。有管絃詠歌之儀。佐原三郎左衞門尉相伴遊女等。棹一葉參向。事而莫不催興。凡山陰之景趣。海上之眺望。於勝地無比類歟。
十九日丙辰。自三崎還御。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日甲寅。晴れ。辰の尅〈午前八時頃〉、將軍家、三崎の津に御出。相州、武州已下、多く參らる。駿河前司、御船等を件(くだん)の浦に儲(まう)け、御舟の中に於いて、管絃詠歌の儀有り。佐原三郎左衞門尉、遊女等を相ひ伴ひ、一葉(えふ)を棹(さをさ)して參向(さんかう)す。事として興を催さずといふこと莫し。凡そ山陰の景趣、海上の眺望、勝地に於ては比類無からんか。]
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