芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (後) 了 ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
芭蕉を崇拜してゐる人々の大部分は彼を大悟徹底の聖者のやうに思つてゐるが彼は決して、其のやうな悟達の人ではなかつた。
野ざらし紀行(貞享元―二年、四十一歳―二歳)の一節に左の如きものがある。
『富士川のほとりをゆくに三つばかりなる捨
子のあはれに泣くあり。(中略)袂よりく
ひ物なげて通るに
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝ちゝに憎まれたる歟母にうと
まれたる歟ちゝは汝をにくむにあらじ、母
は汝をうとむにあらじ只これ天にして汝が
性のつたなきになけ』
路傍の小萩の下にすてられた童をみて何等天眞流露の愛の行動にいでず、『捨てられてゐるのは汝の運命がつたないのだ』などゝ捨て臺詞で通りすぎてゐる。而も『袂より食物なげて通る』などゝは實に言語同斷である。其れが普通人なら兎も角一世の詩人にして僧衣の人である。是を讀んで而も彼を大悟徹底の聖者と云ひ得るか。否、似而非悟道の單なる一エピゴーネンにすぎないのである。むしろこの場合彼の似而非悟道が天眞流露の愛の行動の害をなしてゐるのである。
芭蕉は道を求めたる人とは云ひ得ても決して悟道の人ではなかつたのである。
嵯峨日記(元祿三年―四十七歳)によれば『夢に杜國が事云ひ出して沸泣して覺る。(中略)我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散亂の氣、夜陰に夢む、又しかり』とある。
彼は夢に泣く感傷の子であり又終日妄想散亂の氣になやむ云はゞ心氣耗弱の人であつた。
彼は氣鬱症の傾向があつたらしい事、消化器系統の持病があつた事――從つて自體虛弱であつた事から推して彼は相當神經質であつたと思はれる。
彼は正妻は持たなかつたが壽貞尼なる妾があつたとの説、門人杜國との間に男色關係があつたとの説、等があるが、以上の彼の生理より推して自分はむしろ、芭蕉は性的微弱者であつて、さやうな虞れはなかつたと思ふ。
彼は己れの身體虛弱なる事を自覺し隱遁者としての、俳諧者としての道をとり、又性的微弱者なるが故に妻を持たず女を斷ち禁慾者の道をとつたのではあるまいか。
自分には彼の俳句藝術は、この社會的不具者、生理的不具者として寂寞の重壓力に依つて噴出せしめられたる淋しい花としか思はれないのである。
旅に寢て夢は枯野をかけめぐる
是は彼の最後の吟詠であるが、寂寞の枯野をかけめぐる狂亂の夢――是が彼の一生であり彼の藝術であつたのである。
彼は求道の人ではあつても悟道の人ではなかつた。
彼は病的詩人であつて健康の詩人ではなかつた。
■やぶちゃん注
・『「野ざらし紀行」の一節に左の如きものがある……』「野ざらし紀行」の貞享元年(天和四(一六八四)年二月二十一日に改元)の秋、富士川河畔での一節。
*
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。この川の早瀨にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵(こよひ)や散るらん、あすや萎(しを)れんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげて通るに、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝、父に惡まれたるか、
母に疎まれたるか。父は汝を惡むに
あらじ、母は汝を疎むにあらじ。た
だこれ天にして、汝が性(さが)の
拙きを泣け。
*
語注を附す。
●「この川の早瀨にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。」:この川の目くるめく早瀬の流れにこそこの世のなにがしかの望みのしがらみをかけて、誰か、ここで、この愛しい子の命を救うて呉れと――しかし、この子の父母らは浮世の荒波を凌ぐに耐え切れずなって――ここに儚い命の尽きるまでの間、その誰かに望みを託して捨て置いていったものか、の意。従来の訳では「かけて」を単に比喩とし、早瀬の無常にして無情なる流れに譬えた訳を採るが、ここでは山本健吉氏が「芭蕉全句」(講談社学術文庫)で指摘する、「源氏物語」「手習」の帖の「身を投げし涙の川の早やき瀨にしかがらみかけて誰かとどめし」『という浮舟の歌の文句を不完全に取り入れたものだ。この川の早瀬にしがらみをかけて、誰かこの子の命をとどめてくれるだろうと、もともとはかない人間の命の尽きるまでは生きてくれよと念じて、捨て置いた、という含みがある』という見解を私は強く支持し、訳した。但し、山本氏の推定する極めて濃厚な虚構説には私は逆に組み出来ない。
●「小萩がもとの秋の風」:「源氏物語」「桐壺」の帖で桐壺帝が、母の里方にある我が子若宮(後の光)の身の上を憐れんで、「宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそすれ」と詠んだのを踏まえ、秋風に吹き散らされんとする小萩の花にこの赤子の姿を譬えたもの。
●「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」私にはこれは強烈なリアリズムの中に潜む禅の公案として、ずっと以下のように愛誦してきた。
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……古来、文芸にあって猿の声に悲傷を感じるというあなた――その――あなたは――今――この秋風に響き渡っている――この――捨て子の泣き声を――どう聴くか?!……
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大方の御批判を俟つものではある。
・「路傍の小萩の下にすてられた童をみて何等天眞流露の愛の行動にいでず、『捨てられてゐるのは汝の運命がつたないのだ』などゝ捨て臺詞で通りすぎてゐる。而も『袂より食物なげて通る』などゝは實に言語同斷である。其れが普通人なら兎も角一世の詩人にして僧衣の人である。是を讀んで而も彼を大悟徹底の聖者と云ひ得るか。否、似而非悟道の單なる一エピゴーネンにすぎないのである。むしろこの場合彼の似而非悟道が天眞流露の愛の行動の害をなしてゐるのである」――読みが浅いぜ、鳳作さん!
――芭蕉の怒りがまるで分かってないじゃないか?!
――あんたは小学生の「道徳」の授業でもやっているつもりかい?
――あんたなら、じゃあ、どうするんだ?
――どうしたら、普遍的な「天眞流露の」――この少年を全的に救う「愛の行動」となるっていうんだい?!
――その現場にあんた自身を実際に立たすこともせずに、鬼の首を取ったように芭蕉を指弾してるあんたこそ――
――「似而非悟道」のヒューマニストだ!
――口元軽く「愛」を囁く「單なる一エピゴーネン」だ!
――これこそ――生温い浪漫主義とか何とか
――真の覚悟を持った理論武装も出来なかった
――大正デモクラシーやプロレタリア文学運動
――否
――戦前から今現在に至るまで日本文芸思潮の膏肓(こうこう)に潜むところの――「害」であり――癌である!……と……私は好きな篠原鳳作に、ちょいと激しい「捨て臺詞」を吐き掛けたくなる部分なのである。
・「嵯峨日記によれば『夢に杜國が事云ひ出して沸泣して覺る。(中略)我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散亂の氣、夜陰に夢む、又しかり』とある」これは元禄四(一六九一)年四月二十八日附の「嵯峨日記」の条に出る一節。杜国はこの前年元禄三年二月二十日に配流の地であった渥美半島保美の里に於いて数え三十四の若さで死去していた。
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夢に杜國が事をいひ出して、悌泣(ていきふ)して覺(さ)む。
心神相(あひ)交(まじは)る時は夢をなす。陰(いん)盡きて火を夢見、陽(やう)衰へて水を夢見る。飛鳥(ひてふ)髮をふくむ時は、飛べるを夢見、帶を敷き寢にする時は、蛇を夢見るといへり。枕中記(ちんちゆうき)、槐安國(くわいあんこく)、莊周(さうしふ)が夢蝶(むてふ)、皆そのことはり有りて、妙を盡(つく)さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想(まうざう)散亂の氣、夜陰の夢またしかり。まことに、このものを夢見ること、いはゆる念夢(ねんむ)なり。我に志深く、伊陽の舊里(ふるさと)までしたひ來たりて、夜は床を同じう起き臥し、行脚の勞(らう)を共にた助けて、百日がほど、影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏(しんり)にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂(たもと)をしぼる。
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杜国と芭蕉の関係については私の大部の「笈の小文」の杜国訪問の部分の評釈「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」を参照されたい。以下、語注を附す。
●「心神相交る時は夢をなす……」:以下の夢解釈理論は「列子」に基づく。
●「枕中記」:李既済(りきさい)撰の、「黄梁一炊の夢」「邯鄲の夢」などの故事成句で知られる有名な唐代伝奇の一つ。私のブログ記事アクセス・ランキングの特異点の一つ『「枕中記」原文+訓読文+語注』を参照されたい。
●「槐安國」:やはり唐代伝奇の知られた一つ李公佐(りこうさ)撰の「南柯記(なんかのき)」で主人公が夢で訪れる不思議な国で、実は蟻の巣の世界。
●「莊周が夢蝶」:「荘子」(そうじ)の中の知られた「莊周夢爲胡蝶」(莊周、夢に胡蝶とと爲る)の一節。
●「妙を盡さず」決してこれは奇妙なことではないのだ。
●「念夢」いつも心に深く思い込んでいるがために見る夢。
さて、この記述は寧ろ、異常なまでの芭蕉の杜国への愛情を示すものととってよい。ところが鳳作はこれを続く、芭蕉の「心氣耗弱」「氣鬱症の傾向があつたらしい」「相當神經質」の証左として掲げていることに注意したい。以下の叙述を見てもそうだが、鳳作には恐らく本質的な意味での同性愛に対する理解や親和性は殆んどと言ってよいほどなかったように見受けられ(宮古中学教諭時代には特に可愛がった男子の教え子たちがいるようだが、それらは彼らの芸術的才能への親近性がはっきり見てとれ、特にクナーベン・リーベの様相を呈しているようには私には読み取れない)、この引用の場違いな利用も、何となく分かるような気がするのである。
・「彼は正妻は持たなかつたが壽貞尼なる妾があつたとの説」寿貞尼(?~元禄七(一六九四)年六月二日)については伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「寿貞尼」の解説が最も充実しているので以下に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に変えてある)。
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判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。
出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男(二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる
。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。
寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄七年六月二日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、六月八日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。
なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄七年六月二日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、「六月二日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。
寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり
。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。
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以下、引用文中の「浅談」は『浅尾庵野坡のこと』(蕉門十哲の一人の志太野坡のこと)、「風律著『小ばなし』」については『風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない』と注され、さらに、「芭蕉の種」の部分について、『寿貞の子供達は猶子』という説があり、それについて『桃印(芭蕉甥)を父親とするという説』についても詳述されておられる(引用分量が多くなるのでリンク先をお読み戴きたい)。前の『●「次助兵衞」』の語注も併せて参照されたい。
・「門人杜國との間に男色關係があつたとの説」前の「嵯峨日記」の注を参照されたい。私はあったと思っている。芭蕉には同性愛傾向が非常に濃厚である。言わずもがな乍ら、江戸以前に於いて、本邦での若衆道は普遍的日常的であり、宗教的道徳的にも度を越さない限り許容される、至って正常なる恋愛形態であった。寧ろ、鳳作がそれを「異常性愛」、人ととして犯してはならない「罰」として殊更に忌避しようとしている感じが私には見てとれる。これは彼の父が熱心なクリスチャンであったこと、鳳作自身もキリスト教に強い親和性を持っていたことと無縁ではあるまい。何より鳳作のこの直後の「性的微弱者であつて、さやうな虞れはなかつた」の「さやうな虞れ」という謂いにそれが如実に示していると言ってよい。
・「性的微弱者なるが故に妻を持たず女を斷ち禁慾者の道をとつたのではあるまいか」「彼の俳句藝術は、この社會的不具者、生理的不具者として寂寞の重壓力に依つて噴出せしめられたる淋しい花としか思はれない」この仮説や解釈は当時の精神医学の言説からみても聊かおかしい感じがする。寧ろ、その反対に、同性に対する強い衝動若しくは異性と同性双方に対する抑え難いほど強い性衝動を持っていたからこそ、それを自身の中で強く抑制しようとする意識が働いた人間、しかもそれを恐るべき意志の中で実行することが可能であった種類の人間であった、と考える方が私は理にかなっていると考えるのである。そうしたものの強い抑圧が、まさに当時のフロイト流の見解に一致し、芸術的な昇華を齎し、かの孤高にして詩情に満ちた連句や発句を生み出したのだ、と考える(述べる)方が、遙かに自然な気がするし、今の世の感覚から考えても、すこぶる腑に落ちると私は思う。大方の御批判を俟つものである。
・「旅に寢て夢は枯野をかけめぐる」鳳作はこの前年、昭和一一(一九三六)年四月刊の『句と評論』に掲載された「篠原鳳作 芭蕉小論」でも、「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」と記しており、この知られた句を鳳作は確信犯としてかく記憶違いしていたらしいことがここからも分かる。最後にまた私の評釈をリンクしておく。
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