――芭蕉最期の枕邊にて―― 五月雨も瀨踏み尋ねぬ見馴河
五月雨も瀨踏み尋ねぬ見馴河
(さみだれもせぶみたづねぬみなれがは)
――寛文十(一六七〇)年――芭蕉二十六歳――
……この「ぬ」は完了で御座いますか? それとも打消し?……後の世の者どもがやかましゅう言わねばよろしいのですが……
[やぶちゃん注:「見馴河」は大和国宇内郡五条村(現在の五条市)を流れる水沢(みなれ)川で歌枕。ここはそれを「見慣れた川」という一般名詞に掛詞で転じてある。問題は「ぬ」で、山本健吉氏は「芭蕉全句」で打消で採って、『見馴れたという名のついた見馴川では、五月雨に水かさが増しても、べつだん瀬踏には及ばない』と訳しておられるのに対し、今栄蔵氏は新潮日本古典集成「芭蕉句集」で完了で採り、『五月雨が、川の増水で分からなくなった瀬を探ろうと、脚を踏み入れて瀬踏みをしておるわい。ふだん見馴れて知っているはずの見馴河なのに』と訳しておられる。係助詞「も」が微妙であるが、完成映像として鮮やかで面白いのは断然、今氏の完了での解釈と思われるが、如何?]
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