瀧口修造「扉に鳥影」 又は 今日の芭蕉シンクロニティ 此秋は何で年よる雲に鳥
本日二〇一四年十一月 十三日(本年の陰暦では閏九月二十一日)
元禄七年 九月二十六日
はグレゴリオ暦では
一六九四年十一月 十三日
である。芭蕉五十一歳、芭蕉の生涯はこの十五日後であった。
【その二】大坂新清水の茶屋の席がお開きとなった後、宿所(洒堂亭か之道亭かは不明)へ戻る途次に決定(けつじょう)した感懐吟と私は読む。
旅懷
此秋は何で年よる雲に鳥
此秋は何にとしよる雲に鳥
[やぶちゃん注:第一句目は「笈日記」の、第二句目は「芭蕉句選」(花雀編・元文四(一七三九)年刊)の句形。「笈日記」には、
此句はその朝より心に籠(こめ)てねんじ申されしに、下の五文字、寸々の腸(はらわた)をさかれける也。是はやむ事なき世に、何をして身のいたづらに老ぬらんと、切におもひわびられけるが、されば此秋はいかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て後は、明暮(あけくれ)になやみ申されしが、京・大津の間をへて、伊勢の方におもむくべきか、それも人々のふさがりてとゞめなば、わりなき心も出きぬべし。とかくしてちからつきなば、ひたぶるの長谷越すべきよし、しのびたる時はふくめられしに、たゞ羽をのみかいつくろひて、立(たつ)日もなくなり給へるくやしさ、いとゞいはむ方なし。
という長い痛切な後書を持つ(私は実は支考を人格的に好きになれない人間であるが、この後書はよくぞ書き残して呉れたものと感じ入る思いがある)。
自身の死期を中七で如何にもな俗語で吐露することで諧謔し乍ら、しかも下五で「雲に鳥」というパースペクティヴの消失点に自身の魂の鳥影を据えるという、極めてシンボリックな形而上の個の孤影の強烈なモノクロームのイメージに仕上げるという手腕は、これ、やはりただ者ではない。
最後に。
――私の父の絵画の師であり、私も私淑するシュールレアリスト瀧口修造に「扉に鳥影」というオマージュ・オブジェがある。一九七三年にニューヨーク近代美術館及びフィラデルフィア美術館のマルセル・デュシャン回顧展開会式に招待されて渡米した際、記念に彼から関係者らに贈られた私製小冊子で製作部数は二十部ほどしか知られていない。見返しにある上野紀子が描いた油彩画があり、それはフィラデルフィア美術館でデュシャン回顧展の図録を抱えて、かのデュシャンの「遺作」を覗いている瀧口自身の後姿である(二度ほど瀧口の回顧展でこの実物を見たことがある。東京青山のギャラリー・美術編集「ときの忘れもの」のブログ記事『瀧口修造「私製草子のための口上」(再録)』のこちらで画像が見られる)。
私は瀧口に惹かれた二十の頃からずっと、この瀧口修造の「扉に鳥影」とは、滝口修造のデュシャンへのオマージュであると同時に、芭蕉のこの「此秋は何で年よる雲に鳥」句への諧謔的オマージュであるとずっと信じ続けているのである――]
*
これを公開して夜になってから、僕は既に一年前の二〇一三年十月三十日に全く同じような記事を公開していることに今更にして気づいた。
これを簡略して書き直すことも考えたが、まあ、よかろう。今日のシンクロの方がずっと季に近い。しかもこれが、まさに僕自身の「この秋は何で年寄る雲に鳥」そのものに違いない、からである――
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