明恵上人夢記 46
これ、超難解な夢で、しばらく手をつけなかったのだが、今回、モスクワ大学日本語学科の教師で、明恵の「夢記」をロシア語訳しておられるウラジミール氏とのフェイス・ブックでの出逢いを記念し、昨夜来より挑戦してみたものである。
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46
一、同十二月廿八日の夜、夢に云はく、覺雄闍梨(かくをうじやり)を僧正に、成辨之沙汰として成さしむ。さて、彼(か)の人の爲に水を湛へ了んぬ。誠に澄徹(ちようてつ)せるに、其の水の面に畫文(ゑもん)を書く。其の形
の如くなる文を書く。地をわりて廣益(くわうやく)一段許りに書けり。其の中に小さき魚等入りて、快く水上に遊戲し、際畔(さいはん)に候ふ。さて云ふ樣、「わざと池をほれるに似たる物哉」といふ。大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也と云々。
[やぶちゃん注:この夢は非常に難解である。私はシュールレアリスム的なロケーションの想定なしには、解釈はおろか、単に現代語訳することも不可能と考えている。
「同十二月廿八日」建永元(一二〇六)年十二月八日。栂尾に参って住するようになった十一月二十七日(当月は小)から数えて三十一日後(当該日を数えなければ丁度、一ヶ月後)のことである。当月は大の月であったから、小晦日の前日である。明恵の夢記述は白昼夢を除けば、その日の日記記載の後に記しており、これも通常考えれば、二十八日の夜から翌二十九日未明にかけての夢と読むべきであるから、寧ろ、明恵には年が改まる直前、一年の最後の日の前日という小晦日が強く意識されていたと考えるべきである。
「覺雄闍梨」不詳。底本に注なし(本夢には一切注がない)。「闍梨」は阿闍梨と同義(狭義の限定的なものもあるがここでは同義ととる)で、サンスクリット原義の「師」の謂いととってよかろう。但し、「覺」と「雄」の字をともに共有する人物で、「師」であり、「僧正」として密教の修法を主宰し得る人物が明恵の近くには一人いる。明恵の師である叔父上覚の師で、既に本夢記にも親しく登場している文覚である(彼はこの前年元久二(一二〇五)年に後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられて対馬国へ流罪となり、その途次の鎮西で客死している)。彼は「高雄の聖」とも呼ばれた。これは文覚と考えてよいと私は思う。
「成辨之沙汰として成さしむ」とあるから、法式全体の主催者は覚雄阿闍梨(文覚)であるが、その実際の修法は《文覚が明恵にその総てを執行させた》ということ、即ち、私は以下の「彼の人の爲に水を湛へ了んぬ」とあるものの、それはあくまで「彼の人」=法式主宰である文覚の、「爲に」=その命を受けて、「水を湛へ了んぬ」(水を眼前の修法を行う空間に湛え漲らせた)であり、その後の「畫文を書」いたのも不思議な文字(画像)「の如くなる文を書」いたのも、「地をわ」ったのも、「廣益一段許りに書」いたのも、そこに逍遙遊する魚らを見て「わざと池をほれるに似たる物哉」と「云」ったのも、「大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也」と言ったか心内に思ったのも、総て明恵であると解釈する。それは、これらの動作総てに渡って敬語が用いられていないからである。もしこれらの仕儀の一つでも主宰者の文覚自身が行った行為、言った言葉であったならば孫弟子である明恵が敬語なしにそれを表記することはあり得ないからである。但し、ここが大事な点なのであるが、それは同時に最初に前提条件として附されてあるように、以下総ての仕儀が「彼の人の爲に」行われた、僧正たる文覚の完全なる意志に従って執り行われたものであることをも意味している、ということである。これらは明恵の能動的な意志による行為と感懐及び観察でありなから、同時に師文覚のそれらとも完全に一体のものであるという点である。即ち、この夢の中で明恵がする行為の象徴する何らかの意味は、文覚によって既にして承認されていると、夢の中で修法を執行している明恵が確信している、ということを明示していると私は読むのである。
「水を湛へ了んぬ」前注で示したように、ここの映像化が難しい。「其の水の面」「地をわりて」「際畔」「池をほれる」「大きなる河」といった文字列を見てしまうと、具体的な地面や池のような具象的なものにイメージが引っ張られてしまうのであるが、どうもこれらの語彙は明恵によって厳密に選び出されて組み合わされた表現として私には映るのである。即ち、これは現実の修法が執り行われる護摩壇や祭壇の映像ではない。また、ヴァーチャルなリアリティを持った――黒々とした地面、そこを掘り割って造られた日本庭園、禅の心字池のようなもの、或いは何か水を湛える巨大な鉢なんどのような具象物――でも、ない。言うなら、これは寧ろ、前の「45」夢で私が想定したような、現実を超越した思惟世界の空間に明恵(及びその背後に在る一体化した文覚の意識)は浮遊しており、そこに水が湛えられ、水面(みなも)には漣が立っている(これは私の解。「誠に澄徹」(徹底的に澄んで透き通っている)とあるから、満々と湛えられ、微動だにしない完全に透明な純水とも読めるが、そうするとそれが「溜まった水」であると認知し難い――ここは専ら、この夢のイメージ化に対する私自身の要請である――からであり、そうした質感がないと、そもそもがその後の《その水面に文字を書く》ということもさらにイメージし難くなってしまうからである)。それが湛えてある「池」の底の部分に当たる「地」面はしかし、これも透明で見えないのである。見えないが、しかし「地」はあるのである。だからそれを「わり」、そこにかく、池のような溜まった「物」を創ることも出来るのである。説明がくだくだしくなったが、以上が、私がまず本夢を自分の脳の中に再構成するために必要とした最低条件であったのだと御理解戴きたい。
「畫文を書く」絵のような文字のような紋のようなものを、その水面に書く、のである(プライベート・フィルムではその不思議な文字の外縁から周りに向かって細かな漣を立たせたい)。
この文字、私は初めて目にした二十代の頃からずっと今に至るまで、
『「門」の略字を二つ横にくっつけたような感じだな』
と思い続けてきた。昨夜、寝る前に凝視してみたが、やっぱり、
『これって「門」か門のような絵を二つ並べたようにしか見えないよな』
と思いつつ、寝に就いた。今朝目覚めた瞬間、
『これって二つの「門」――聖道門と――浄土門、易道門――の二つじゃないか?』
という思いつきが閃いた。明恵はこの六年後の建暦二(一二一二)年、専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」を痛烈に批判する「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、発菩提心(ほつぼだいしん)の欠落を指弾しているものの――ここが私が最も引かれる明恵の「心直き」ところなのであるが――、法然に対して明恵は実はその修道心と学才に非常に強い尊敬の念を持っていたのであった。それゆえにこそ、「選択集」に示された「誤り」を正さずにはおれなくなって「摧邪輪」を書いたのであったし、明恵自身は終生、自己加虐的とも言える過酷な難行苦行を自身に課した、脱俗志向の強い人であったが、例えばウィキの「明恵」にあるように、彼の『打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』もあって、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』のである。即ち、明恵は、聖道門と易道門が両輪となってこそ、旧態然とした目の粗い笊でしかなかった国家鎮護の平安旧仏教から、真に衆生を残らず済度する鎌倉新仏教へと脱皮出来る/脱皮せねばならないと考えていたのではなかろうか? そう解釈するなら、この二つに見える「門」のようなものが実は――聖道門と易道門が合体して有機的な一体に融合したところの〈まことの仏性の中へと人々を導き入れるための「門」〉として示されてある――と読み説くことは出来ないであろうか?
「文」「文字」或いは「文章」。
「地をわりて廣益一段許りに書けり」前段との対称性から、これは「(その水を湛えている見えない「地」面部分を裁ち割って、(今度は、「水」の上の「門」のところではない)そこ、底(核心? 腑?)に「廣益」(広くこの仏国土と衆生たちに利益をもたらすこと。「益」は「法益」と同義と考えるなら、これは師が上堂や講義によって大衆に対して説法して教化する、それを広範に行うことを意味する語とも採れる)を象徴する章句を「一段」(ひと文章・一塊)書き込んだと解釈する。
「小さき魚」衆生の象徴というよりも、寧ろ、「荘子(そうじ)」の「秋水篇」に載る、「知魚楽」という呼称で知られる話柄を私は直ちに連想した。この原話は、私の偏愛するもので、教員時代には漢文で必ずと言ってよいほど採り上げた。以下の注に、原文と語注と私の現代語訳があるので参照されたい。――この魚らは心から楽しんでいるのであり、それをその見えない池の池畔に佇んで見ている明恵(同時に文覚)には全く同時にその魚らの心の楽しみが分かっている――という謂いであろう。
『さて云ふ樣、「わざと池をほれるに似たる物哉」といふ。大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也』これは、
――それを見ながら私明恵は、口を開いて、
①「わざと池をほれるに似たる物哉」(人がわざと池を掘って造ったものによく似ているなあ!」
――とはっきりと独り言を言った。
――さて、この夢の中の私が口を突いて述べた時、夢の中の私は心内に於いて、その自分の吐いた言葉を、
②「大きな、水が流れている河の中、その底を、わざわざまた、浚渫掘削し、こんな風になったという謂いである」
――と再度、感じたのである。
という一見、迂遠重複としか思われない叙述をしている点に着目すべきである。私自身の夢記述の体験から言うと、こういうまどろっこしいダブった記載法を採るのは、その台詞や言葉が非常に重要な意味を持つと、夢の中の私と覚醒時の私双方が、全く等価同様に感じた際に限られると思う。即ち、実はこのかったるい最後のだらだらして見える二文こそが、この夢の謂いたいところなのではなかろうか? 即ち、これは、
――普通、大河の底を掘って池を掘るなんてことは無用の用だ。
――しかし事実は、その無用の用にこそ、私の行為の真理は隠されているのだ。
――だからこそ、この魚ら(私明恵を含めた衆生)は心から楽しんでいるのである。
という安心立命の表現と私は採りたいのである(無駄で意味がないという謂いでネガティヴに解釈することも無論、可能であるが、私は明恵の場合、そう感じた激しく後退的で悲観的な夢については(見ていたとは思う)、明恵はあまり書き残そうとは思わなかったのではないかと感じている。]
■やぶちゃん現代語訳
46
一、同十二月廿八日の夜、見た夢。
『覚雄阿闍梨(かくゆうあじゃり)様を僧正として、私に一切を執り行なわさせる修法を修させておられる。
まず、私は広大無辺な光に満ちた空間の中に漂っている。
私は、徐ろにかの覚雄阿闍梨様のために、その空間に水を十二分に湛え終えた。
そこに満たされた水は実に美しく透き通っていたのであるが、私はその透明な絹のような水の面(おもて)に一つの絵のような紋を書くのである。
その字紋の形、
のような不思議な感じのものであったが、しかし、それを私は確かに意味を持った、そうしてその意味を理解して確かな「文」として書いたのである。
次いで、今度は、その見えない水底の地面を裂き割って、その裂け目の部分に、広く民草を心から教化(きょうげ)するところの章句を、一くさり、書き込んだ。
するとその私は裂き設けたその淵の中に小さな魚たちはすぅーっと入ってきて、如何にも気持ちよさそうに、その淵の水の中に遊戯し、時によってはその水際に佇んでいる私のところへまたすぅーっと寄り集ってきては如何にも楽しそうにそこに暫くいるのである。
さて、そうした総てを見て私が口に出して言った言葉は、
「……何とも……人がわざわざ池を掘ったのに似てることだなあ!……」
という台詞であった。
これは言い換えると、
――大きな川の中に、わざわざその川底を裂き割ってかくの如くに、「川の中に池を創った」ようなものだ――
という意味なのであった。…………』