橋本多佳子句集「海彦」 霧に鳩
霧に鳩
「青燕」の人々に招かれて戦後初めて
信州へ旅立つ。津田清子さん同伴
[やぶちゃん注:底本年譜の昭和二七(一九五二)年の条に、『十月二日の夜行で、清子同伴、信州長野市の「七曜」支部発表式に、戦後初めて信州へ旅立つ。三日長野着。その午後木口奈良堂の案内で林檎園を見に行く清子を詠って』として後掲される「林檎の樹のぼりやすくて処女のぼる」が掲げられてある(「木口奈良堂」という人物は同支部の俳人と思われるが不詳。因みに清子は当時三十二歳である)。続けて、『六日、北軽井沢から鬼押出しに吟行。一冊の句帳を満たす』とある。
「青燕」は小諸の青燕俳句会の俳誌であるが、恐らくこの『「七曜」支部』とあるのと同一組織であろうと思われる。
「七曜」は昭和二五(一九五〇)年一月より多佳子が本格的に主宰した俳誌(創刊は昭和二十三年一月一日で多佳子の名で冬一郎指導と年譜にある)。
因みに、この昭和二十七年の年譜末尾には、『この年より、青森の寺山修司、京武久美ら「七曜集」へ投句。修司より依頼され、その俳誌の誌名「牧羊神」を揮毫』とある。』京武久美(きょうぶひさよし:昭和一一(一九三六)年~)は青森県生。青森市立野脇中学校二年の折りに同級の寺山修司と友人となり、県立青森高等学校時代には文芸部でともに活動、俳句・短歌に熱中した。高校一年の時、京武の俳句が地方新聞の俳壇に掲載されたことへの競争意識が寺山の句作の原点となったという。昭和二九(一九五四)年の第一回全国高校生俳句コンクールで一位(二位は寺山)を獲得、若者のための全国的俳誌『牧羊神』を寺山とともに始めたことで知られている。後、金子兜太の『海程』で活躍、二〇〇九年に初めて処女句集「二月四日」を発表している(以上はウィキの「京武久美」に拠った)。寺山と多佳子が師弟関係にあることは必ずしもよく知られているとは思われないので、ここに記しおくこととする。
なお、プライベートでは、この昭和二十七年の四月に多佳子は心臓の変調を訴え、心臓ノイローゼの診断を下されている(同年譜より)。]
汽車を乗り継ぐ月光の地に降りて
霧に鳩歩む信濃の着きしなり
霧寒きとき信濃川わたりゐたり
畑の樹(き)林檎幾百顆にて曇る
林檎にかけし梯子が空へぬける
林檎の樹のぼりやすくて処女のぼる
青胡桃ひろへり墓地の土つきしを
秋野の汽笛波立つ千曲渡り来て
「嬬恋」の字(あざ)に住み秋草のみじかさ
[やぶちゃん注:底本では「字」は「宇」である。「宇」には辺土や野原の意はあるから敢えて特異なルビ俳句とも採れぬことはないが、「あざ」とは決して読めない。私は敢然、誤植と断じて訂した。大方の御批判を俟つ。]
夕焼熔岩(らば)何処にてをとめのこゑ消ゆる
秋風や地底よりなる熔岩の隙
こほろぎやもとより深き熔岩の隙
こほろぎが生きをるこゑをよびかはす
胸先にくろき富士立つ秋の暮
天暮るる綿虫か地に着くまでに
(二十七年)
[やぶちゃん注:「綿虫」雪虫。以下、ウィキの「雪虫」を参照・引用して述べる。カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科
Aphidoidea に属するアブラムシのうちで、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称。体全体が綿で包まれたようになる。「雪虫」という呼び方は主に北国での呼称で、他に「綿虫」「オオワタ」「シーラッコ」「シロコババ」「オナツコジョロ」「オユキコジョロ」「ユキンコ」「しろばんば」といった俗称を持つ。体長は五ミリメートル前後。『具体的な種としては、トドノネオオワタムシやリンゴワタムシなどが代表的な存在である』。『アブラムシは普通、羽のない姿で単為生殖によって多数が集まったコロニーを作る。しかし、秋になって越冬する前などに羽を持つ成虫が生まれ、交尾をして越冬の為の卵を産む。この時の羽を持つ成虫が、蝋物質を身にまとって飛ぶ姿が雪を思わせるのである。アブラムシの飛ぶ力は弱く、風になびいて流れるので、なおさらに雪を思わせる』。『北海道では初雪の降る少し前に出現したりする(と感じられることが多い)ことから、冬の訪れを告げる風物詩ともなっている』。『雄には口が無く、寿命は一週間ほど。雌も卵を産むと死んでしまう。熱に弱く、人間の体温でも弱る』。最後に『俳句ではセッケイカワゲラのことを指し春の季語となっている』とある。セッケイカワゲラは襀翅(せきし)目クロカワゲラ科セッケイカワゲラ属セッケイカワゲラ
Eocapnia nivalis のこおであるが、時期的にも表現からも多佳子の詠んだものは前者「しろばんば」の方であることは言うまでもない。]
誓子先生、大和郡山に柳沢保承氏を訪ね
らる。御案内しての帰途
椎どんぐり海龍王寺ぬけとほる
(二十九年)
[やぶちゃん注:底本年譜にはそれらしい記載は見当たらない。「柳沢保承」というのは、名前からして、畿内の雄藩として知られた旧大和郡山藩の藩主であった柳澤家の第八代当主と思われる。柳沢保承(やすつぐ 明治二一(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年)は郡山藩最後の第六代藩主柳澤保申(やすのぶ)の子として生まれた。父死亡当時は幼少であったため、新潟県黒川の柳澤支藩の保恵(やすとし)が家を継ぎ、昭和一一(一九三六)年の保恵死後、柳澤家の家督を継いだ。伯爵・貴族院議員で昭和二二(一九四七)年に公選により初代郡山町長に就任、同二十四年に退職、その間、教育制度変更による新制中学校・新制高等学校の改編に努力した(以上はこちらの記載を参照した)。彼と誓子との関係については不詳。識者の御教授を乞うものである。]
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